学生時代に古典和歌のアンソロジーを作ったことがある。

 勅撰和歌集と万葉集それぞれから四季の歌と恋の歌を選んだものだ。

 それが、数十年の時を経て出て来た。

 選んだ歌が懐かしく、考証は恥ずかしい。

 

 懐かしくはあるが、好きな歌というのは変わらない。

 今選んでも恐らく似たようなものになる気がする。

 「恋」の歌は違うかもしれないけれど。

 

 「去年の春 あへりし君に 恋にてし 桜の花は 迎へ来らしも」(『万葉集』若宮年魚麿)

 「春雨は いたくなふりそ 桜花 いまだ見なくに ちらまくをしも」(『万葉集』詠み人知らず)

 「ことしより 春しりそむる 桜花 ちるといふこと ならはざらなむ」(『古今和歌集』紀貫之)

 「さくらいろに 衣はふかく そめてきむ 花のちりなむ のちのかたみに」(『古今和歌集』紀有伴)

 「花ちらす 風のやどりは たれかしる 我にをしへよ 行きてうらみむ」(『古今和歌集』素性法師)

 

 勅撰和歌集に入っていないから選ばなかったけれど好きな歌も挙げちゃう。

 まずは『京都寺町三条のホームズ』の批評を書いたときにも書いた歌。

 「願わくは 花のもとにて 春死なむ その如月の 望月の頃」(『山家集』西行法師)

 

 そして近代で好きな歌。

 「桜ばな いのち一ぱい 咲くからに 生命をかけて わが眺めたり」(『浴身』桜百首 岡本かの子) 

 桜を眺めるだけでなく、その命を感じて自らの生を桜に投影しているのだろうか。

 もっとも、岡本かの子の桜百首は美しい桜ばかりを詠んではいないのだが。

 彼女の生き方は破天荒とされるのかもしれないけれど、私は結構好きである。

 

 与謝野晶子とか平塚らいてうとか野上弥生子とか伊藤野枝とか宮本百合子とか、明治〜大正、昭和に掛けてに強く生きた女性たちは凄い。尊敬しているし好きだ。共産主義でも無政府主義でもないけれど、あの時代そういった思想に傾倒していくのは理解できる。そういう先人たちがいて、今好き勝手な発言ができる私がいるのだと思うのだ。

 

 去年今頃は桜が咲いていたのにね。

 これはソメイヨシノではないけれど。