「『薪を拾いながら本を読んでいる』って言うと、片手で本を持って読みながら薪を見つけたら拾っているのを想像するよね?」

と息子が聞く。

 「うん、そうだね」

と答えたが、なんなんだ?

 

 『薪を拾いながら本を読む』って何?

 もしや、二宮金次郎?

 

 「どうして?」

と聞いてみると

 「三浦しをんのエッセイに『薪を拾いながら本を読む二宮尊徳の銅像』って書いてあって。薪を拾っているって言うと違うことを思い浮かべるんじゃないかって思ったんだよ」

と言う。

 「『薪を拾いながら』だったら、片手で本、片手で薪じゃない?あの像は『拾い終わった薪を背負って運びながら本を読んでいる』でしょ。薪を運ぶ間、暇だから本を読みながら歩いているわけでしょう」

 

 確かに。

 「そうだね、『拾いながら』ではないね」

 私に似て細かい息子である。

 

 三浦しをんさんのエッセイか。

 その文章、読んだことがある気がするなあ。

 

 「でもまあ、薪を集めるというい仕事をしながら本を読んでいるって意味だとすればいいし、面白かったんだけど」

と息子は続ける。

 

 それもまたそうだ。

 

 「ところでさ、お母さん。二宮尊徳って二宮金次郎でしょう?いったい何した人なの?実は僕、知らないんだよね」

と少々恥ずかしそうに質問する。

 

 私そして子どもたちの母校の小学校には二宮金次郎の像はなかった。

 だからまあ知らなくても仕方がない。

 それでも「二宮金次郎」って名前は知っているのね。逆にどこで知ったか不思議。

 

 「二宮金次郎は農業の改革をしたり財政再建をしたりした人だよ。裕福だったのに両親を亡くして、働いて弟妹を養いながら勉強をして、ちゃんと家を再興したの。それから藩の財政立て直しをしたり、村の立て直しをしたりしたの」

と教えると

 「そういう人だったんだあ。じゃあさ、どうして大人になってからの像じゃないんろうね。子どものときの像って本人は照れちゃうよね。今頃、『うおおおおっ』って悶えてたりして」

と。

 

 ポイントがそことは……