「#研究するお母さんがいる作品」というのを見て、唐突に思い出したことがある。

 遠い昔ー元夫と1度目の別離を経験し、元に戻り娘を産んでしばらく経った頃のことだ。

 

 「何か面白い本、ない?」

と元夫に聞かれて重松清の「幼な子われらに生まれ』を勧めたことがあった。

 

 重松清の物語は「泣かせよう、泣かせようとしているでしょう、分かっているんだから」と読み進み、結果「ほら、やっぱり泣いちゃったよ」というものが多い。もっとも最近の重松作品は、残念ながら少々微妙(物語もだが、文章、特に心情描写が常に同じような言い回しが多過ぎる)であるが。

 そう言えば、ひと頃中学入試の問題文といえば重松清だったなあ。今は朝比奈あすかというところだろうか。

 

 閑話休題。

 『幼な子われらに生まれ』は、そのときたまたま読んでいた本だった。

 主人公は三十代後半の男性だ。2度目の結婚相手との間に赤ちゃんが出来、妻の連れ子の長女が「本当のパパに会いたい」と言い出して家庭が波立つところから物語が始まる。

 若い頃1度目の結婚をしていた主人公、1度目の妻は赤ちゃんである娘を連れアメリカの大学院に進むために去った研究者である。そして、DVの被害者であり、男性に寄りかかり決断は常に相手に委ねる2度目の妻。

 そして成績も容姿も非常によく、ハキハキと明るい血の繋がった娘。実の娘と同じ歳である妻の連れ子。勉強は苦手、地味で少しひねくれ、人気者とは言えない子である。「十人の大人がいれば十人ともが実の娘を選ぶだろう。でも私は連れ子を選ばなければならない」と表現する男性は哀れだ。

 テーマは「家族」なのだろう。主人公の葛藤や苦しみや悩みが素直に描かれ、登場人物それぞれが悩みながらも人生を切り開いていき、「人生」「家族」「結婚」などについて考えさせられる。

 

 主人公が腹立たしかった。研究者として成長していく妻に苛立ち、同僚男性に嫉妬して無理やり孕ませ、家庭にいることを強いたはずなのに、いざそういう女性と再婚すると決断を全て自分に委ねる2度目の妻を鬱陶しく思う身勝手さが。

 何一つ自分で決められず、全て(妊娠しているときの体の管理さえ)夫に委ねるのに、前妻にこだわる2度目妻にもイライラした。 

 

 研究者としての人生を諦め、地方都市で「専業お母さん」になることを選んだ私、それに後悔はなかったと思おうとしていた頃だった。主人公に腹を立て、主人公の2度目の妻にイライラし、主人公の最初の妻に感情移入した。

 

 とは言え、深い意味があって紹介したわけではなかったのだ。

 

 深い意味はなかったのだが、本を読み終わった元夫に聞かれた。

 「ねえ、もしかして研究者に戻りたいと思っている?」

 「娘を連れて出て行ったりしないよね?」

 「それとも『本当は出ていきたいけれど我慢している』ってこと?」

 

 「そういう意味で貸した本ではないけど」

と答えたには答えた。

 

 答えたには答えたのだ。

 安定した生活を再び捨て、赤ちゃんの娘を抱えて博士課程に戻る勇気は私にはなかったから。

 けれど、本の中の元妻が羨ましくなかったと言えば嘘になる。

 1度目の夫を捨て、留学して博士課程に進み、理解のある男性と結ばれ、母親として研究者として生きている彼女が羨ましかった。

 どうして、どちらかしか選べないんだろう。

 男性はどちらも手に入れるのが普通なのに。

 女性であるだけで、どちらか一つを選ばなければならないっていうのはおかしい。

 そんな風に思ったのは事実だ。

 

 それにしても、元夫がそう私に尋ねたときの気持ちをずっと失わないでいてくれたら、私たちは今でも夫婦だったのかもしれない、と愚にもつかないこと一瞬思ったりもした。いや、そうであっても、子どもたちへのた態度や私への束縛が変わらなかったら私の方が耐えられなかったか。

 

 それより「もしも」娘が幼い頃に元夫と別れ大学に戻っていたら、「もしも」下の子が生まれたときに自分から別れを告げていたら、私は今、どうしていただろう。

 「もしも」は言っても仕方のないことだけれど。