昭和20年8月15日、終戦の日。

 もしも、終戦が1日遅れていたら、私はいなかった。

 

 私の母方の祖父は特攻隊の生き残りである。

 出撃命令の日は8月16日。

 だが、前日8月15日、太平洋戦争は終わり、祖父は生き残った。

 婚約者だった祖母と結婚し、母が生まれた。

 

 人間魚雷、回天、知らない人もいるかもしれない。

 本来は武器であって、人間が乗るものではない魚雷に操縦席と自爆装置を付けたものだ。

 それを操縦して、相手国の艦に体当たりする。

 目標の艦の500m手前までは潜航し、一度浮上、向きを確認して今度は速力を上げて突入、命中時には速力が30ノットになり、自爆装置に手を掛けた姿勢になるようにするそうだ。

 一度発進すれば、停止も再始動も出来ない。もちろん脱出装置もない。目標艦に体当たりできなかった時は、体当たりできるまでそれを繰り返すのだ。

 

 訓練はとても難しく厳しく、20回は搭乗しないと出撃できるレベルにはならなかったという。操縦の難しさから、訓練中に命を落とすこともあったらしい。

 死ぬための決死の訓練…

 しかも、当時回天は海軍の最高機密事項だったため、何の訓練をしているのかも、いつ出撃するのかという詳細な日付も、家族に知らせることが出来なかったという。

 

 いわゆるお坊ちゃん育ちの祖父は、男の子がそのまま大人になったような人だった。とても陽気だった。祖父がしてくれる海軍の話は面白いものばかりだった。

 能天気な祖父が話すと、お腹をロープで縛られて長い竿に吊るされての水泳訓練の話は笑い話のようだったし、教官のお茶に雑巾の絞り汁をこっそり入れたなどという、会社での意地悪上司への仕返しのような話もあった。祖父のいた隊の雰囲気は明るく、陰湿ないじめや暴力はなかったそうだ。

 祖父が海軍で覚えたと作ってくれたクリームシチューはとても濃厚で美味しかった。水は使わずに牛乳ベース、驚く程たくさんのバターが入っていた。

 

 訓練の辛さも、出撃命令を受けたときの気持ちも、出撃が決まり婚約者である祖母が訓練所に会いに来た時の祖母への想いも、祖父は話してはくれなかった。先に出撃し帰ってこなかった仲間のことも、出撃が決まっていたのに戦争が終わったために生き残ったことをどう思ったのかも、何も聞かせてはくれなかった。

 

 そんな祖父だが、靖国神社のお参りは毎年欠かさなかった。

 「靖国行けば、死んでしまった仲間たちに会える。」

そんな思いがあったのかもしれない。

 「日本は平和だ。守りたかった街は賑やかだ。家族も元気だ。」

そう、報告していたのかもしれない。

 

 

 靖国神社に対する思いも考え方も、人それぞれだと思う。

 

 「戦犯が祀られているから行く気にはならない。」

という人もいる。

 それも一つの考え方だとは思う。

 

 でも、私は鮮明に覚えている。

 幼い頃見た、おにぎりやお菓子やお茶やジュース、お酒を供える大勢の人たち。

「今年も会いに来たぞ。」

「ほら、美味いか。」

 お参りしながら、そう話し掛けて涙を流すお年寄り。

 

 そういう人たちの思いを否定することは、やはり私には出来ない。

 

 どちらであってもいい。

 戦争と平和を考えるきっかけであればいい。

 ただ、自分とは違う意見を靖国神社に持つ人がいても、もう一つの立場の人たちを非難することだけはしないでほしい。

 戦争で亡くなった人を悼み、平和を願う気持ちは、みな同じなのだ。