少し前、ポテトサラダ問題がかなり盛り上がっいた。
「母親ならポテトサラダくらい作ったらどうだ」と非難する高齢男性と、その声に俯く若いお母さん。
本当に、私がそばにいたら、文句を言ってあげたのに。
ポテトサラダを作るのは結構大変なんだ、という意見はもっともだけれど、ついでに
「母親が楽して何が悪い。手抜きの何が悪い。」
とも思う。
付き合っていた頃からそうだったのだが、元夫は夕ごはんというのものは母親の手作りを家で食べるものだと思い込んでいたふしがある。
子どもと一緒に1日出掛けても、夕食を食べて帰るのではなく、家で私が作ったものを食べたがった。
朝早くから長時間出掛けるのでなければ、帰宅後ちょっと手を加えるだけでいいように下拵えをしておくのもやぶさかではない。
それだって、後片付けは面倒だ。ましてや、遠くまで出掛けていたり、子どもと一緒に遊んで疲れていたりしたら、途中で食べて帰りたいのは当たり前だと思う。
そんな風に言うと、決まって彼が言ったのが
「ちゃんと作らなくていいよ。」
「簡単にカレーとか、うどんとか、パスタとかでいいよ。」
だ。
簡単でいいって何?
どうしてカレーやうどんやパスタが簡単なわけ?
ちゃんと作ったらどれもこれも結構面倒よ。料理も出来ないくせに。
例えばおうどん。
お湯を沸かして、茹でて、麺を洗って冷やして。
麺汁があればいいけれど、なければみりんとお醤油で作る。
具が何にもないと悲しいし栄養も偏るから、ネギを刻んだり、温泉卵を作ったりもする。
大きなお鍋、洗いにくい。しかもおうどんを茹でるとぬるぬるがなかなか取れない。ざるも洗わなくちゃならない。
食器の数は少ないけれど大きな器を人数分使うから、これまた洗いにくい。
どんなものであれ、ほんの少しでも手作りすれば、下拵えから後片付けまで、それなりに手間が掛かるのだ。
少しも簡単じゃないよ。
そして、それ以上に腹立たしいのはこちら。
「ちゃんと作らなくていい。」
「簡単でいい。」
そもそもだ。
どうしてそんな風にあなたは私に許可を与えるの?
料理の手抜きをするのにあなたの許しが必要なの?
作るのは私。
ならば、主導権を握っているのは私のはずだ。
これでいったいどれだけバトルをしたことだろう。
まあ、彼も一緒に出掛けることそのものがどんどん減り、息子が3歳頃には、私ひとりで子どもたち二人を連れて出掛けるのが日常になっていたから、それほどの回数争ったわけではないのだけれど。
そうそう、おうどんと言えば、さすが外出後の夕ごはんには
「天ぷらが添えてあったらいい、だし巻き卵もほしい。」
とまでは望まれたことはない、
でも、おうどんはおうどんであるだけで、たとえ野菜のかき揚げや油揚げや人参の甘煮、だし巻き卵を添えたとしても、彼には「簡単に出来る手抜きの食事」となるから困りものだ。
さて、この「でいい」という「許可」のおおもとのもとは何かと考えると、それは食事の支度をする側の
「ごめんね」
の言葉ではないかと…
「ごめんね、今日は簡単にパスタでいい?」
「ごめんね、忙しかったから、今日は簡単にするね。カレーでいい?」
「ごめんね、今日は手抜きね。おうどんでいい?」
そんな風に、母親が言い続けたら、子どもは
「麺類やカレーは手抜きなんだ」
と認識し、かつ
「ごめん、と言われた。本当はダメなメニューってことだ。」
とまで刷り込まれてしまわないだろうか。
私はだから、どんなメニューでも
「ごめんね。」
とは言わない。
子どもたちは、作ってもらう立場で
「でいい。」
などと言う人間にはしない。
食べる側に必要なのは、食材への感謝と作り手への感謝である。
私は、食べたいものをがんがん作ってわしわし食べるのだ。
今日は冷やし中華。
最後に乗せようと思っていたのに、青紫蘇、乗せ忘れちゃった。グスン。
海ぶどうは上からドレッシング類を掛けてしまうとしおれるから、ポン酢でもつんつん付けようかと思ったら、息子が
「冷やし中華のタレにつけると美味しいよ。」
と言うので、冷やし中華につんつん。
なんとなく寂しいから、デザートの梨と虎屋の羊羹(抹茶・夜の梅)も一緒に並べたら豪華になった。