アメリカにはついて行く、と決めた。

 期間は3年から5年、アメリカの支社が軌道に乗るまで、ということだったからだ。

 5年、短くとも3年、小学校低学年まで現地校に通えば、娘はその後の頑張り次第でバイリンガルになる。将来の選択肢が広がる。私も、少し慣れたら、コミュニティカレッジに通えるかもしれない。

 メリットとデメリットを考えて、決めた。

 

 (特定されるリスクを考え、都市名はここでは書かず、アメリカとだけ書くこと、ご容赦下さい)

 

 今度の転職は元義父も、仕方ない、という雰囲気だった。

 もしかしたら、コンサルティングファームだの、コンサルタントだのといったよく分からないものよりまだ、ベンチャーとはいえ、メーカーの方が理解できたからなのかもしれないし、単に諦めたのかもしれない。

 

 けれど、なんと、この転職&アメリカ行きの報告で、今度は私と元義父の亀裂が徹底的になったのだ。

 義父相手に、自分の主張など、すべきではなかったと気づいた時にはもう、遅かった。

 

 まだ年少さんの娘を連れ、一泊のつもりで義父母の家に行った。

 転職と転居の報告を兼ねてだ。

 

 夕食をとりながら

 「まあ、頑張りなさい。」

というところまでは、よかった。

 その後である。

 

 元夫は3歳から5歳まで、ニューヨークに暮らしていた。

 義父の留学の為だ。

 同じ研究室の医師が交代で行っているような留学で、家も家具も前任のものをそのまま引継ぎ、また現地の日本人コミュニティにもそのまま参加、というような、日本のサロンをそのままニューヨークに持っていったような暮らしだった。

 当時生まれたばかりの義弟と幼稚園児の元夫を連れ、義父を追いかけて渡米、慣れない英語に苦戦しながら子育てした義母は立派だと思う。何せ義父は全くといっていいほど育児には関わらない人だから。

 ただ、ほぼ日本人コミュニティでだけ過ごした為、母の友人はごく少数を除いては駐在妻、育児の合間には、ひたすら日本語でおしゃべりし、フラワーアレンジメントやお料理、手芸に勤しむという生活だったという。

 数少ないアメリカ人の友人も、義父の研究室の人の妻、日本人留学生夫婦の世話をいつもしている人ばかり。

 義母は

「とっても、とっても楽しかったわ。お友だちもたくさん出来たし。」

などと笑っていたが

「2年ちょっとアメリカにいて、ほとんど英語を使わない生活、もったいない。」

「閉じたコミュニティ、怖い。」

とそれを聞いて思ったものだ。

 

 義父が言い出した。

「パパたちがニューヨークで過ごした時のように、日本人のコミュニティを見つけないと。そこでトラブルを起こしたりしないよう仲良くし、とにかく行事には絶対参加して、日本人と過ごすのがいいな。」

「日本の会社からアメリカの支社に派遣されている人、家族連れも大勢いる。そういう人を頼るんだな。」

 義母も言った。

「日本人同士が一番よ。駐在じゃないから、きっと大変だけれど、見つかるわ。色々出来て楽しいわ。ママも楽しいお友だちがたくさん出来たわよ。◯ちゃんも安心だし。」

 

 せっかく、アメリカで暮らすのだ。

 どうして、ひたすら日本人だけで集まって、日本語でおしゃべりをして日本語で習い事をしなくてはならないの?

 

 意味不明。

 

 もちろん、日本語で思ったことを話せる環境は大事だ。そんなことは分かっている。不測の事態がおきたときには頼りになるかもしれない。

 

 でも、私は色々な人と友だちになりたい。

 現地で学校にも行きたい。

 娘にも、色々な友だちを作ってほしい。

 アメリカの文化、風俗、言葉を肌で感じてほしい。

 駐在員コミュニティのしがらみに囚われたくない。

 

 黙っていればよかったのだ。

「はい。はい。」

とだけ言っていればよかった。

 

 けれど、つい言ってしまった。

「はい。でも、日本人のコミュニティだけにいてはもったいないと思うんです。せっかく暮らすのだからだから、娘は現地のpublicに入れるつもりだし、私もいずれはコミュニティカレッジにでも行くつもりです。」

 

 この言葉のどこが、そこまで元義父の癇に障ったのかは今もって分からない。

 30年以上前の、自分のアメリカ生活を否定されたように感じたのかもしれないし、単に嫁の分際で意見を言ったのが、気に食わなかったのかもしれない。

 

 この直後、彼は激昂した。