マイナスから学ぶよりプラスから学べ | Eye of the God ~神の眼~

Eye of the God ~神の眼~

現代における預言の言葉。黙示。
現代の常識、価値観では幸せになれない人たちへ。
新時代に合うものの考え方を紹介していきます。
あまりにも常識と違うので、戸惑われることでしょう。
でも、キリストはかつてこう言いました。
『耳のあるものは聞くがよい』。

 しくじり先生、というTV番組がある。大きな失敗をした人が、自分みたいになるな! と先生みたく語るのである。きれいなことを言うと「大勢が知る大きな失敗をした人だからこそ、そのメッセージには説得力があり、同じ轍を踏まずに済む人を増やせる」という、世のためになるような取り組みである。
 しかし、その表向きとは裏腹に、この利益あげてなんぼの社会では「儲かれば何でもいい」というホンネが透けて見えることがある。どういう点でかというと、そのしくじり先生の「人選」である。
 筆者が個人的に思うのは、中途半端な人を出さないでという点。反省している風でも、口先だけしかそれを証明するものがないのはバツ。ああ、これはこの人生まれ変わったなという具体的な材料、言い換えれば誰もが納得する「証拠」が必要なのだ。実績と言ってもいい。それがない者の話は、公共の電波に乗せて放送する価値はない。あと、失敗したことの質によっては、たとえ反省していても扱うべきでないと思うものもある。


『おでんツンツン男』という言葉があった。迷惑動画の行き過ぎで炎上するという、悲しいことに今じゃ珍しくもなくなったケースである。ユーチューブでの視聴数が上がったことで味を占め、どんどん迷惑行為がエスカレートしていった。そうして行き着いたところがおでんの一件である。
 その人物の母親は学校の校長先生とかで、ひどい迷惑がかかったらしい。それだけでなく、色々な被害をこの人物は受けている。いや、被害ではないな。被害というのは「こちらに非はない(あるいはかなり薄い)のに一方的に不利益を受ける」ことで、この場合は自業自得側面もあるので「身から出たサビ」とでもいおうか。
 いくらこの人物がそこから学ぼうとも、自分みたいにはなるなという思いを世に伝えたいとしても、私はこのように取り上げる必要はないと考える。


●そもそも人に迷惑をかけてはいけない。それ以前に、自分の得のために他者への迷惑に目が曇ってしまうようなのは、学びとか人生勉強とかいうレベルではなく「アウト」というその一言で十分。

 
 そもそもがそんなアホなことをしてはいけなかった、したのはサイテーだという以上に何か説明が要るかい? 反省しようが、そういう人物の話など価値がない。
 もしあなたが「そういうことをしでかしかねない人物のためにも、こうしたらこうなるんだなということは情報として発信が必要」と考えるなら、この日本は相当病んでいるということだ。バナナのむき方を動画にして、分からない人がいるかもと流しますか? 人を殺したら重犯罪、内容によっては自分も死刑ということをあえて分かってない人がいるかもと教えようとしますか?


●こういうことをしたらこんな不利益があなたに起きますよ、というメッセージはほとんど役に立たない。


 なぜかというと、そんなことが有効だと考える人のほとんどが「平和を生きている」からだ。穏やかな日常を送っている人は自分の基準でものを考えるため、自分だったら「こんなことになるのなら犯罪なんかしないな」と思える。
 だが、実際に犯罪を犯す場合のその人物とその周囲の状況というのはほとんどの場合「非日常」なのだ。特殊で、平和な日常を生きている人には想像もつかない内的葛藤と戦いがある。そういう異常な精神状態において「これをやったらあとあとこんなタイヘンな人生なる」とかいう損得勘定を捨てさせるほどの推進力が働く場合があるのである。常識など役に立たない。
 あとになって落ちついて反省する者もいるかもだが、大きな感情のうねりの前には、ほとんどの正論や理屈が無力化する。


 ゆえに私は、どうもこの番組が気に食わない。
 失敗した人間を引っ張り出してきて「こうなるな」より、もっと「こうなろう」というプラス側面にベクトルが向かう内容のほうがいい。マザーテレサが「参加するなら反戦の集会よりも平和の集会」と言ったように、しくじりにフォーカスせず「どうしたらよくなるか」を考える方が益だ。
 こういう番組を見ると、本当に世のための情報を発信するんだという信念よりも「視聴率のために担ぎ出した」という側面のほうを強く感じてしまう。悪名は無名に勝る、という悲しいメッセージを「それって本当なんですよ」と補強する形になってしまっている。売れれば、表向きの信念やお題目などどうでもいいのだ。話題性は言ってることの価値に勝る。


 スピリチュアルな理解が深化していくと分かるが、受け取れるメッセージは選べない。与えられるものをありがたくいただく形で、決してそれは受け手の望んでいることと一致しない。ましてや、聞き手である大衆の「こんな言葉を聞きたい」と望むこととも一致しない。


●真理とは、聞く者が喜び幸せになるもののはず、というのは都合の良すぎる解釈である。


 問題は、その時である。そこで情報操作、あるいは情報のせき止め、または改変が行われる場合があるのである。なぜなら、この世界でお金を稼ぎ続けるには、皆が継続して金を払いたくなるようなことを言い続けなければならないのである。選び続けてもらうためには、間違ってもその人物の機嫌を損ねてはならないのである。
 たとえば、師匠と弟子の関係ならまた違う。弟子は、相当の覚悟と目的意識をもっているため、少々怒られようが否定されようが、それも「成長していくため」と受け止め、決して離れてはいかない。だが、スピリチュアルというレベルではお客様に全権がある。やりたければやればいいし、イヤになればいつでも離れてかまわない。その自由さは利点ではあるが、逆に「こらえ性がなく苦い良薬すら嫌悪する」ひょろい人間をこさえてしまう。


 宗教であれスピリチュアルであれ、ひとつ間違いないのはその神髄は「世の利益追求の姿勢とは相容れない」ということである。
 なのに、この世の中でそれでメシを食っていこうと思えば、ある程度世の中の方向性に合うように捻じ曲げ改変するか、「あえて言わないで隠しておく部分」というのが出てくる。
 ここは、皆さんに喜ばれるために、私のメッセージを改変もなにもしない。言わないでおくこともしない。私が受けて伝えなかった内容はもはやない。
 魂の成長を促すための媒体・分野は利益のために決して内容を曲げたり変えたり伏せたり、人が食いつくように「ニーズ」をリサーチしそれに基づいて提供するような商業主義的姿勢を取るべきではない。
 あくまでも天からその日その時与えられたそのままがよいのであり、それをそのままお出しすればいいのであり、結果カネになるかはその副産物としての結果であり、決してその副産物のほうを先に考えてはいけない。