転売ヤー | Eye of the God ~神の眼~

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現代における預言の言葉。黙示。
現代の常識、価値観では幸せになれない人たちへ。
新時代に合うものの考え方を紹介していきます。
あまりにも常識と違うので、戸惑われることでしょう。
でも、キリストはかつてこう言いました。
『耳のあるものは聞くがよい』。

 皆さんが聞いてうんざりするであろう単語のひとつに『転売ヤー』というものがあると思う。最近何かと話題のポケモンカードにはじまり、ちょっと前ならPS5、福山雅治がコンサートチケットの転売に対して厳しい態度で立ち向かう、ということが話題となった。
 別に今の時代に始まったというものでもなく、昔は「ダフ屋」という連中がいて、ファンなんだけどどうしてもチケットが手に入らなかった人間があきらめきれずに会場近くに行くと、そういうやつにアンテナを張って声をかけてくる。
 割高で譲って差額を利益とするのだが、当時は「余分な高額を払ってでも逃したくない人間の自己責任」においての選択で、今ほどとやかく言われはせず、ダフ屋は一種の「必要悪」として見逃されてきた。


 私たちは、完全無菌では生きられない。ある程度の雑菌と共存することで生物らしくしっかり生きられる。ただし必要以上に不衛生だと体に悪いので、そこは「清潔」ということが大事になるが、完全無菌はやりすぎで逆に死ぬ。
 ネット時代になり、スマホの普及もあり、状況は昔と同じではなくなった。雑菌が必要以上に増殖しすぎたのだ。原因は、雑菌が増殖しやすい環境が整ってしまい、それに対する十分な対策を講じれていない、という点にある。なにかというと「法的には問題ではない」という点だ。ホリエモン(堀江貴文)は、転売ヤーに怒る人に対して「法的に何の問題もないんだから怒るなんてバカ」みたいな発言をしている。
 ここで考えたいのは、法的に問題がなければ本当に何をやってもいいのだろうか、というテーマについてである。


 オンラインゲームで、PK(プレイヤーキル)という行為があるものがある。
 大勢が同じ世界でキャラを操作しているのだが、他人のキャラを殺す行為である。モンスターを殺すのと同じで、他プレイヤーキャラにも攻撃できてしまう仕様なものが存在する。私が過去にやったものでは、他人を倒すとその持っているアイテムを落とす(地面にぶちまける)ので、それを略奪できる。 
 強いキャラを育てて、待ち伏せしてそれをやるある悪名高いプレイヤーがいて、たいへん嫌われていた。当時の2チャンネルでも、その人物はたいへんな言われようだったが、本人の言い分としてはこうである。
『できる仕様になっていることをしてなぜ悪いんだ。いけないなら、ゲーム制作者がはじめっからそういうことができないようにすればいいだけ。でもしなかった。ゲームとしてできることをやるのは当然の権利』


 この宇宙はどうだろうか。
 悪と呼ばれる行為があり、いけないことではあるがやろうと思えばできてしまう。
 盗みもいじめも詐欺もいけないことである。痴漢も虐待もいけない。でも、選択としてそういうことができてしまう。そこで考えるのが「神様というのがいたとして、なんで悪を行える仕様にしたのだろう」ということ。この宇宙ゲームにおいて「他者を傷付けること、不幸にすること」が実行可能というゲームになぜつくったのか。


●いけないことをできないように設定すると、その生物は最低ランクの価値になる。


 だって、当たり前だからだ。何も創造的な価値を生まない、機械同然の存在だからだ。悪いことを最初からできない、という状態に価値など1ミリもない。
 この宇宙で価値があるのは—


●選択肢として「悪いことをする」道もあるのに、あえてそれを選ばないというところに最高の価値がある。


 この世界がすべて二元性(ペア。見えるものと見えないもの・陰陽)になっているのも、そのせいである。常に正反対の道が用意されていて、そのどちらを選ぶのか問われる。その時に「見事な選択」ができたならその人物の喜びとなり宝となる。もし、この世界の創造者が最初から悪や苦痛の萌芽が生じることをゆるさない世界を作ったとしたら、それはたいへん「つまらない」世界である。
 もちろん、皆さんご存知のように人間は弱い。選択をよく間違う。
 でも、それを徐々に乗り越えていくことも、この宇宙ゲームにはクリア目標として含まれている。失敗が「まったく価値がない」こととは設定されいない。ハズレ券百枚貯めたら1枚の当たり券と交換してもらえる、みたいな感じでまったく前進をしない失敗はこの世界にはない。


 ただ、人間はそこまで長寿な生き物ではないので、失敗はいくらしていいとは言っても、その限られた人生で「よかった」と思える最後を飾るには、この失敗はあかんやろ、という状況はある。それはなんとか、こらえていただきたい。
 転売は、よほど目に余る(あるいは他の法に触れる)ものは逮捕されたりするが、大半はとがめるのに限界がある。それによって、本当にそれがほしい人の元に届かないという悲しい現実がある。子ども向けの商品が、儲かるというだけで汚い大人が買い占めて高額で売られ、泣く泣く大人の親が高額出して子どもに買う、なんてのはたとえ法が裁かなくても世間の声が裁く。
 だから、法律では問題ないからやっていい、のではない。やってもいいけど、大勢の幸せのことを考えたら「選ばないし選べない」ことこそが、人類に求められている選択なのである。大勢がその選択をできるようになった時、それでこそ初めての「人類の精神文明の大きな前進の一歩」となる。