王様ランキング | Eye of the God ~神の眼~

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現代における預言の言葉。黙示。
現代の常識、価値観では幸せになれない人たちへ。
新時代に合うものの考え方を紹介していきます。
あまりにも常識と違うので、戸惑われることでしょう。
でも、キリストはかつてこう言いました。
『耳のあるものは聞くがよい』。

『王様ランキング』というマンガ(アニメ)作品がある。
 ちらっとでも同作品の絵を見たことがある人なら分かると思うが、一見子どもっぽい子ども向きの画風(童話あたりに適した描き方)になっているので、何も知らないと絵相応の「子どもっぽいお話」なのかと勘違いをしてしまう。


 実際に見てみると、その内容はかわいらしい造形のキャラたちの絵柄に反比例して、すさまじい。大人のドラマもかくや、と思われるほどにその内容はヘビーで陰惨で、人間のもつ心の闇をしっかり見据えたものになっている。
 この記事では、ストーリーの大事なところのネタバレはしないが、書きたいことの関係でどうしても「ストーリーをある程度追わないと分からないようになっているある情報」について触れざるを得ないため、純粋に前情報なしでこれから見たいという方は、今すぐにここからあとを読まないように願いたい。


 主人公のボッジ王子は、最強の男と言われた巨人族の王の長男なのだが、生まれた時から巨人族なのにやたら体が小さく非力で、どんなに鍛えても筋肉もつかない。おまけに言葉をしゃべれず耳も聴こえないという障がいまで背負って生まれる。
 そんなボッジ王子だが、ただ勇気と人を思いやる心、そして「一見不利やハンデと思えることを逆転の発想で強味に生かす」ことで普通に強い人間を超える強さを身につけ、のしあがっていくというところが大変感動的である。バカにする者も多いが、王子の人柄に触れて「思わず味方したくなる」登場人物が増え、そのおかげでさらに事態がよいほうへ進展する、という王道なサクセスストーリーも人気の秘密だろう。


 ストーリーが進むと、ある事実が視聴者に判明する。王子の秘密に関することだが、物語中の王子はその情報を知らないままお話自体はすすむ。
 王子の父親である王は、世界最強とうたわれた武人であるが、それは純粋に正当な努力で手に入れた強さではなかった。魔人(悪魔みたいなものか)と取引をし、「生まれてくる自分の子どもの強さを取り上げて、自分のものにするならお前は最強を手にできる」と言われ、その条件をのんだ。
 ゆえに、巨人族のくせに体は小人並みの、口もきけない耳も聴こえない王子が誕生したのだ。王はその後ろめたさや罪悪感からか、「王子には何不自由ない生活ができるように」と手厚く世話をする。周囲は「あれだけ非力で王の器ではない息子をなぜあそこまで大事にするのか」不思議がる。第二王子のダイダ王子は文武両道の立派な王子で(性格に難はあるが)、そっちのほうを長男次男関係なく次の王としたらよいのに、どうしてもボッジ王子のほうを王にする意思を変えない。
 その辺の事情が、先ほど挙げたイヤな話を情報として知ると腑に落ちるものがある。でも興味深いのは、そんな重要な裏事情が、当のボッジ王子の幸せとは「ゼンゼン関係がない」という点である。
 確かに王子は非力なこと、口がきけないこと、耳が聞こえないことを人からバカにされると残念そうな、寂しそうな顔はする。でもそのことで、彼が「もう自分がイヤ」というふうな思いに囚われることにはならない。彼はその状況なりに、人生を前向きに楽しんで生きている。なにより「どうして自分はこんななのか」と考えないので、出生の秘密に大した価値がない。
 他人から裏切られたり、悲しい出来事の前では泣いたりもするが、決して自分や自分の信じた人物に対して絶望はしない。


●その人物にとってなにより重大な人生の情報であっても、別に知らなくても幸せに生きる力が人にはある。


 宗教やスピリチュアルという分野は、人が普通に目の前の現実だけを生きていたのでは知り得ないような情報で満ちている。そしてある種をそれをこそウリにしている。へぇ! ほぅ! という意外な驚きに巡り会いたい、知的好奇心豊かな人間であふれかえっている世界である。残念なのは、それはあくまでも「好奇心」であり、求道するというような真剣さと真面目さをもってくる者はそう多くない。
 たいがいは、真理云々より「個人的な悩みや問題を解決できたらよい」「あっと驚くような情報に触れたい(そして興奮したい)」という人たちである。
 ボッジ王子は、自分の状態が自分の知らないところで「父親に勝手に取引された」結果であることを知らない。これほど重要な情報はない。知ったところでどうにもならないとはいえ、こんな重大なこと本人に知る権利がある。
 でも彼はそんなことを知らず父をただ父として認識し、不便があっても他人の冷たい目にさらされても、基本彼は前向きで優しい心をもち、人生を自分で切り開いていっている。


 スピリチュアルを発信する立場のくせに、私などは思うのだ。このボッジ王子のように「別に宇宙の真理とか仕組みとか本当のところとか、そんなたいそうなことを知らなくても、手持ちの札を生かすだけで十分に幸せには生きていける」ものなのだ、と。
 だから、スピリチュアルに飛びつく人に聞きたいのだ。あなたは、手持ちの札を十分生かして戦ったんですか? それでも八方ふさがりでここへ来たのならまだ分かります。でも、それをしてないでこちらに来るのは「怠け者」ではないですか?
 宗教やスピリチュアルは「松葉杖」だと筆者は思う。骨折した、という状況の時だけ役に立つ。平時には必要ない。常時意識して、人生を縛らせるためのものじゃない。本来神のごとき価値をもつあなたというひとつの宇宙には、あなたがその気になれば別に他に頼らないでも困難を乗り越えていけるパワーと可能性を秘めているのだ。自分が自力で歩けることに気付いてなくてわざわざ松葉杖を使っている状況は、少々滑稽ですらある。


 ここで改めて聞きますが、あなたがスピリチュアルを探求するそのわけは?
 本当に、それを聞かずともできることは皆試しましたか? 学校で、自分で頑張らずに問題の答えを先生に聞きに行ったら「まずは自分で考えてみなさい」と言われませんか?
 スピリチュアルをやって健全な人間とは、好奇心などから飛びつかず「まず自分で最大限人生について、世界について考え抜き、ひとつの自分なりの思想体系(信念)を確立させ済みな者」である。それでこそ、道場破りというか腕試し的に他人の精神世界情報に触れて、自分だけでは無理だった部分を補い(助けてもらい)、自分の心の中のオリジナル・スピリチュアルに微調整を加えアップデートしていく、というのが最もスマートなスタイルである。