風に吹かれて | Eye of the God ~神の眼~

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現代における預言の言葉。黙示。
現代の常識、価値観では幸せになれない人たちへ。
新時代に合うものの考え方を紹介していきます。
あまりにも常識と違うので、戸惑われることでしょう。
でも、キリストはかつてこう言いました。
『耳のあるものは聞くがよい』。

 ボブ・ディランの『風に吹かれて』という名曲がある。
 風に吹かれて、という同じタイトルの歌は結構多く(中には風に吹かれても、とか風に吹かれてみませんか、なんてのも)、もしネットで調べたい場合は歌のタイトルだけではなくちゃんと歌手の名前も入れないと検索はうまく絞れません。手当たり次第順番に見ていく根気があれば別ですが。


 歌の内容は、何度も「あと何回~すれば、あれはこうなるのだろう」みたいな疑問が何度も繰り替えされ、結びにその問いへの返答である「友よ、その答えは風に吹かれているのさ(風の中さ)」という言葉が添えられ、この歌は終わる。
 この歌の言いたいことが何か、ボブ自身へのインタビューの内容で見えてくるものがある。彼は曲の発表時次のようなコメントを残した。
 ……この歌については、正直あまり言うことはない。(意訳すれば、意味や解釈に関してあまりにベラベラしゃべるのはかえって無粋だということ)それでもあえてひとつだけ言うと、「すべての物事の答えは風に吹かれちまっている」ということ。人生の答えは、学者の書いた本にも載っていないし、頭のいいやつのTVの討論番組の中にもない。すべては風の向こう側なのさ(つかみどころがない)。


 今このタイミングは全国的な大雨で、安全のため交通機関が運転を見合わせたりしている。

 新幹線も止まってしまっているので、あの最近は話題を聞くことが減った「ゆたぼん」が、新幹線が止まって帰れずヒマしているので、誰かおれに奢ってくれる人待ってるぜ! みたいな普通の人からしたら「ふざけた」「舐めたような」メッセージを発信していた。我々の感覚からしたら「誰がこんなやつに奢るんだ」と思うが、奢るやつはいたのだ。本人が嬉しそうに報告していた。
 自作自演を疑う向きもあるが、そこまで考えだしたらキリがない。いくら世の中の平均的な数の人間が「これが正しい」「こうあるべき」と思っても、その枠に収まらない出来事というのはいくらでもあるのだ。
 へずまりゅう、という迷惑系ユーチュバーなども分かりやすい例だ。無断欠勤可能で月収100万くれるところならオレを雇えるよ、みたいなことを言い「世の中をナメている」とヒンシュクを買ったが、それでも名乗りを上げるところがあったのだ。
 我々はそれを「理不尽」という名前で呼ぶ。あってはならないことの総称であるが、それはあくまでも「人間の考えの基準」がベースであり、しかも個々人で微妙に「こうあるべき」の判断基準が違う。


 我々は映画とか小説、TVドラマやアニメやマンガを楽しむ。
 もちろん物語であるからありとあらゆる筋書きのものがあるが、中でも特に好まれるのは「主人公が苦難を経ながらも最後にはハッピーエンドに至る物語」「悪が倒され、善(正しいとされる者)が勝利する」という内容である。
 皆さん気付いておられると思うが(気付きたくなかったと思うが)、正しい者が最後には必ず勝つとか、あきらめなければ(信じ切ることができれば)願いは絶対に叶うとか、そんな真理も法則もこの世界には1ミリもない。
 つまりこれらは、宇宙の真理でも天の法則でもなんでもなく、ただ人間側の「世界とはこうであってほしい」というただの願望であり、あまりに強すぎる人のその願いが投影されて、そういうことがあたかも宗教的(スピリチュアル的)真実のように言われるようになってしまった。
 必殺仕事人なども、罪もない一生懸命生きているだけの弱者を食い物にして、何の罪も感じずお金を勘定して高笑いをしているやつらを、仕事人がバッタバッタと始末していく。そこに爽快感を覚えるのだが、それは嫌な話だが「現実はそうでないから、物語の中で悪は最後に成敗される世界を仮想空間で味わうことで、心を落ち着かせている」のだ。それでなんとか満足して生きているのだ。 


 ドキュメンタリーという分野はまた別なのでここでは論じる対象とはしないが、たとえばある実在の人間の実際の一日や、その人物の現実の数年間を本当に追って、意図的なストーリー付けもせず誠実に映した話など、映画作品やエンタメ作品としては成立しない。誰も喜ばない。
 いくら作りものでなくリアルでも、そこに何の面白みもない。人が物語の中に見出したいのは、現実にはないものである。つまりは、「悪が負け善が勝つ」「困難はあっても最後に夢が叶う」系の、きれいでやさしい「ウソ」なのだ。


●現実的ではない「ウソ」こそ、本当にはないもの(願ったらといって必ずしも得られるわけではないもの)こそ、私たちが求めてやまないものである。


 求めすぎるあまりに「そうだよね、そうでないとおかしいよね、そうじゃない世界はおかしいよね!」と言い聞かせすぎて、人類はそれが世界の真実と考えてしまった。これも一種の逃避行動である。実際そうではないのに、そうであると信じ込もうとするのだから。
 もちろん、悪いことではない。むしろ、世界をそのように肯定的に捉えることはよいことで、生き方としては模範的ですらある。ただし、人生が順調なうちはいいのだがそうしてもその世界観を強がって支持できなくなるほどに理不尽なことを経験した場合に、自分を支える一番の砦であるその信念を壊されたら、あなたはどう生きていくのか。その時あなたは一気に弱くなる。


 私たちは、真実と願望をごっちゃにして考えるクセがついてしまっている。
 世界はこうあるべき、病に取りつかれている。
 でも、世界はあなたの望む通りにはいかない。ゆたぼんとかへずまとか、世の中を舐めたようなやつは早く世から消えろ、とか落ち目になれ、とか思っても相変わらずどこかには彼らに構う者が一定数おり、あなたの基準で良いとされる者ばかりが生き残るということにはならない。
 本当に才能や力のある者がその気難しい性格や裏表のなさゆえに、世に認知されず一生を終えることがあり、そこまでのものはないのにプレゼン能力の高さと社交術で、その道の「一流」と認識される者もいる。探せば彼以上の者は見つかるのに。
 この宇宙には、善悪にからんでその如何によって起きることや宇宙という大いなる意志の対処が変わるというような決まりごとは一切ない。
「因果応報」という言葉はよく誤解される言葉である。光の反射と同じで、ただ「同じ波長(波動)を持つものが返ってくる(引き寄せられる)」というだけの話なのに、それを「いい行いにはいい報いがあり、悪いことをすると自分にも悪いことが返ってくる」という道徳的話にすり替えられた。神様も閻魔大王もおらず、ただこの宇宙は半自動的に「入力された内容への、あらゆる環境要素が計算・加味された総合結果」を打ち出すだけだ。


 とにかく、生きてるとことごとく「自分がこれはこうあるべきだと考えること」がそのように現実的にはならないことを嫌と言うほど目にすることになる。
 あなたの大嫌いなゆるせないヤツがいて、あんなやつろくな死に方をしない、とか今に不幸になるぞ、とか思って今か今かとそういう情報を待っているのに、一向にそんなことにならず向こうはうまくやっている。
 これは素晴らしい、これはもっと世に認められていいと思うものが、一向に見向きもされない。世の中はバカばっかりなのか? と考えてしまう人までいる。
 そういう時に、思い出すのですよ。ボブ・ディランの歌を。彼の伝えたいメッセージに思いを馳せるのです。


●あと何回人類が愚かなことを繰り返したら、世界は学び生きやすい世界になるのだろうって? あと何度正しいメッセージを繰り返したら、世界は耳を傾け目覚めるのだろう、って?
 あと何回人を殺せば、人を殺しちゃいけないと学ぶのだろうか。あと何回戦争したら、もう二度とごめんだとやらなくなるだろう?
 友よ、その答えは「分からない」だ。風に吹かれてその向こう側に行っちまっているのさ。つかみようがない。
 分からないで生きるしかないのさ。いや、分からないでそれでも前向いて生きることが人生、ってもんなのさ。
 もう真実がなんでもどうだっていいや、世界が他人がどうだって、おれはおれのするべきことをするだけだ、って心地になれたら、ちったぁ生きやすくなるぜ。