それでもこの世界の多様性を褒めたたえる | Eye of the God ~神の眼~

Eye of the God ~神の眼~

現代における預言の言葉。黙示。
現代の常識、価値観では幸せになれない人たちへ。
新時代に合うものの考え方を紹介していきます。
あまりにも常識と違うので、戸惑われることでしょう。
でも、キリストはかつてこう言いました。
『耳のあるものは聞くがよい』。

 私がその昔、嫌っていた言葉がある。嫌いというか、同意できないあるいは認めたくないというか。


①人生は、いいこと半分悪いこと半分(この比率は人によって意見が違う)

②何かをつかむ時には、何かを手放さなければならない。



 現在放送中のNHKの朝ドラ「らんまん」の今朝の回で、松坂慶子演じるおばあちゃんが②のセリフを言っていた。
 筆者は、悟り系のスピリチュアルに傾く前は、バリバリの引き寄せ系の思想をもっていた。まさに「思考は現実化する」という言葉をクリスチャンにとっての聖書と同じくらいに大事にし信奉し、引き寄せ系の本を毎日、自分に言い聞かせるように声に出して音読さえしていた。

 アファーメーションという言葉があるが、まさにそれで「願望をはっきり口にし、もう自分はそうなった(あるいはそれを得ている)!と宣言することで現実をそれに近づける」というものである。
 そしてそんな私が、逆に激しく同意する言葉もあった。名作TVアニメ『鋼の錬金術師』のオープニングの言葉である。


人は何かの犠牲なしに何も得ることはできない
何かを得るためには、それと同等の代価が必要になる
それが、錬金術における等価交換の原則だ
その頃僕らは、それが世界の真実だと信じていた

(要するに今は違う)


 引き寄せとか成功哲学の世界では、「無理と思うから無理」「決めつけこそが悪者」「できると信じること(ビリーフ)こそ重要」ということが言われる。
 最初に触れた「人生良いことと悪いことが半々程度で交互に繰り返される」というのも、「人生はそんなもの」だと思い込むから、その通りの現実になっているだけで、実はそんなことなく「いいことで埋め尽くせる」と心から信じればその皆が言うジンクスはひっくり返せる、私は本気でそう思っていた。
 だから、人生ってこういうものと口にする親やその他のお年寄り、何かを得るには必ず代価がいるという考え方が嫌いだった。いや、バカにすらしていたかもしれない。お前らは、自分で望んでそういう人生にしているんだよ、心で本音で信じたことが現実になっていくのにバカなやつら、と。
 でも、今となっては思う。


●統計学をバカにしてはいけない。


 世間で、たとえばことわざに昇格するほどの内容のものなら、少なくともその世界においてバカにできない数の人が「同じ確信に至り、そうだそうだと同意する」からこそ定番の言葉となるのだ。
 人生いいこと5割悪いこと5割(ちなみに筆者の父の言い分だと、いいこと3割悪いこと7割)というのは、実際に人生を生きた大勢の実感なのだ。百歩譲って、その全員が「人生は思った(心からそう願った)とおりのものになる」と本気で考えることが出来、思考が現実化すると信じて実践して生きたとしよう。それでも、結果は個人でバラツキが出て、実際に人生が上向く者も出れば変化のない者、果てはよりひどくなる者も出るという結果となる。
 信じさえすれば不可能はない、という考え方は生き方的心構え的には立派ではあるが、実際的にはただのバカであると分かった。ある程度引き寄せを頑張ってみると、その世界にはある誤魔化しがあることが分かる。


●引き寄せを広めるような本が誤魔化しているのは、「筆者のように生きればあなたも同じように成功できる」というところである。
 実際は、著者はその人だからこそ、その受け継いだ遺伝子・親や恩師その友人を含めたすべての環境、様々な縁が絡んでその成功があったにすぎず、あなたは個体がまったく違うので「信じる」というところだけ同じ作業をしても、出力される現実はその成功者と同じようなものにはならない。



 悟りによって、私はこの世界の真実は「あらゆる可能性をつぶすことが目的の世界」だと知った。だから、「人生をエゴが判断する良い悪いのうち良いほう」だけで埋め尽くそうと頑張るのは自然の理に反すると知った。
 もちろん人間をやっているので、自分が快適に生きれる状況を作りたいというところからは逃げられない。だから私だってそう願いたいが、私は心の内にある「一線」を設けている。その一線を超えない範囲で私は自身の幸せや安定を求め、その一線を越えそうな時(例えばいくら願っても無理な状況や、願いが叶うことで他に大きな迷惑や損害を与える可能性が生じる状況)は、もうそこまでしてはいいや、と手放すことを自分の中で決めている。
 人として許される範囲で自己の利益や幸福の追求はするが、過度に執着してまではしない、と。無理をしない、必死過ぎない、しゃかりきにはならないというところが重要である。


 この宇宙は、上位次元(神)が、すべて起き得る「可能性」を実験しようとして展開した試験場である。そしてそこに投入された人類(あるいは知的生命)一人ひとりは、各々ある可能性を担当として投入された実験体である。
 絶対に同じことにはならない。他人の真似をしたからといって、願うその他人の成功や幸せを得られなどしない。もし得られたとしてもそれは「たまたまあなたの担当シナリオがそうであった」だけで、勝手に「この法則を実践したら成功した」という物語付けをしているに過ぎない。


 だからヘンな話に聞こえるかもしれないが、筆者がこの先の人生幸せかそうでないかは、その日その日で確認していく以外にない。だから私は今日のこと以外は何も考えていないし、期待もしていない。なるようになる、ただそれだけ。
 悟った立場からは、意図的に現実をコントロールしようとすることこそ愚の骨頂。ただそうは言ってもこの世界には様々な精神ステージ段階の人が混在するので、コントロールしようとする人はまぁ元気でいいですね、って感じで私は微笑ましく見ている。悪いことではない。せっかくこの「物語付けの世界」に来ているのだから、むしろ推奨の生き方であり、そうする者はこの世の優等生である。
 悟りは、レッドカードものである。いくら宇宙の実相をつかんだとしても、それはこの幻想世界では「言っちゃいけない約束よ」なので、いわゆる不良であり厄介者である。


 そんな今の私だから思う。人生いいこと半分・悪いこと半分って口にした人を見下げたことがあってゴメンね、と。等価交換を「愛があるじゃないか、愛! あれは等価交換などではないぞ」とバカにした。それもごめんね。
 何かを得るためには何かを手放さないといけない、ってのも「そう思うから決めつけるから、そのとおりの現実が展開するんですよ」と言って反抗していたのも、ごめんね。今なら分かる、一人ひとりのシナリオによっては実際にそうなんだってこと。
 違う、そうじゃないと言えるのは自分がそう言えてしまう立場だから。相手の立場に立つということを学べたら、自分から見てうまくやれていない人間が「分かっていない、あるいは努力が足りない」などという視点で見ることはできなくなる。
 だから私は、今日もこの世界における、起きる可能性のすべてに畏怖と敬意を捧げる。そのバリエーションの無限な様を褒めたたえる。
 実に面白いです! 明日は何が起きるんでしょうか? と。その時に何が来たとしても、人として多少はジタバタするかもしれないが、最終どっしり味わってやりましょ、という心境である。