あなたの正体は「かさね絵」 | Eye of the God ~神の眼~

Eye of the God ~神の眼~

現代における預言の言葉。黙示。
現代の常識、価値観では幸せになれない人たちへ。
新時代に合うものの考え方を紹介していきます。
あまりにも常識と違うので、戸惑われることでしょう。
でも、キリストはかつてこう言いました。
『耳のあるものは聞くがよい』。

 

 

 NHKの超有名な教育番組に「ピタゴラスイッチ」がある。
 もちろん有名なコーナーは複雑な仕掛けの成功で魅せるピタゴラ装置なるものだが、最近になって「かさねておえかき」というコーナーも筆者の目を引いた。
 最初、それだけではなんだかよく分からない絵が描かれる。絵というより「線」と言ったほうがよく、それが何なのか単体では分からない。
 画面の中の書き手は、次々に一つの画面に部分的な線や図形だけの入った絵を複数書いていく。勘のいい人は、頭の中の想像で書かれた線をだぶらせてみて「もしかして船じゃない?」「テッシュの箱じゃない?」などと推測する。
 最後に、書きあがった絵をスライドさせてぴったり重ねることで、初めて何を描いたものかが明かされる。


●ひとりひとりの人間の人生は、この「かさねておえかき」のようなものである。


 例えば、霊能者と呼ばれる人種がいる。
 彼らには霊が見え、霊が存在することは当たり前である。
 言い換えると、見えない人はいるのに分かっておらず行動していて、見える人からすると人生損をしている。だからこそ、「見える私が知恵を授けてあげましょう」というふうに、良かれと思いいろいろに世話を焼いてあげる。それが高じると、お金を取ってなんらかのサービスを始めたりもする。
 筆者は、それ自体は問題だと思わない。なぜなら、霊の問題で悩み助けを求めるような人は一定数いて、実際にニーズがあるからだ。

 だが、筆者がこの一線を越えたら問題だ、と思うのはー


●霊がいて、それが現実世界に影響しているというのは真理であり誰にとってもの事実だ。だから見えない人、信じない人に成り代わって私こそがこの真実を訴え広め、助けなければいけない。


 霊能者がこのように考えることである。
 宗教をやってる人も似たようなもので、自分の信じているものは正しいので、分かろうとしない人に嫌われてでも広めないといけない。今は嫌われても、あとあとその人のためだということが広く分かる日が来るのだから! と考える。
 今言ったの、思いっきり間違いね!


●霊が実生活にからんでくる人は、その人の人生の「かさねておえかき」の一要素の中に「人生に霊がからむよ」という絵が入ってるのだ。
 でも一方で、死ぬまで霊も見えず、一生人生に登場すらしない人も少なくはない。そういう人の人生には、「かさねておえかき」の絵の中に「霊」という線がないのだ。だから霊能者とその普通人の人生は交わらない。



「エクソシスト」というホラー洋画の古典的名作がある。
 あれは実話だということで有名である。実際にロシアの大学で「エクソシスト学部」という、悪魔祓いの専門家を育てるようなところもあるくらいだ。
 実話なんだったら悪魔は存在するということになり、我々はのほほんと日常を送れないはずだ。いつ何時、悪魔の魔の手が伸びて私たちに取り憑き、恐怖のどん底に陥れてくるか分からないのだ!
 でも、大多数の人は今日も普通に仕事に行き、外食してうまいと言い、アフターファイブにはカラオケ行ったり、家でテレビみてゲラゲラ笑ってたりする。睡眠も普通にとる。悩みと言えば、いつ悪魔に襲われるかではなく、人間の上司のほうがもっと怖い存在だったりする。


●宇宙は、単一ではなく多重構造である。
 霊や悪魔に縁のある人もいれば、ないで済む人もいる。
 それがなまじ、ひとつの同じ世界に生きているように見えてしまうせいで、「これ教えなきゃ!」「これ分からせなきゃ!」となってしまう、ありがた迷惑な人が出てきてしまう。



 たとえば、スピリチュアルで霊界がどうだ、と言う人がいる。
 昔なら丹波哲郎氏が「大霊界」なる映画まで作った。もちろん筆者は氏のお人柄や活動には敬意を払う。でも、氏がいくら自分の確信や体験が真実で、皆にとっても例外なく当てはまることだと思っても、それは実にあなただけなのだ。あるいは、あなたとあなたに似た人生シナリオを担った似た者たちにだけ。
 おそらくだが、あなたの人生には死ぬまで悪魔などという存在は干渉してこないだろう。キリスト教文化圏にいる人に悪魔が憑きやすく、それはあくまでそう思い込めやすい文化風俗があるという前提がある。それのない日本人には、ゼロとは言わないまでも欧米に比べて絶対的に悪魔憑きになる人は超レアであろう。
 霊界は、すべての人にとって例外なくこういうもの! というのはなく、各人によって全然違う世界である。だから、霊界とはこういう世界です(誰にとってもこうです)という話を筆者は好きではない。
 筆者への反論として、「三途の川」ということを持ち出す人がいる。世界中を調べると、文化も風俗も違うのに、多くの文化で三途の川に似た概念や実体験の話が確認される、というのだ。これだけ世界に共通の話が多いのだから、やはり三途の川というのはあるんじゃないのか、と。
 私は、この問題については以下のように考える。


人類歴史の最初のほうで、誰かが「三途の川」の体験をした

影響力のある誰かが、その話を他人にシェアする

三途の川の体験した人の話が頭に残り、死んだらそうなるのかな、と何気に深層意識に落とし込まれる。

で、その知り合いも肉体を脱いで霊になると内的世界が全面的に展開するので、生前信じたとおりになる。つまり、三途の川があるんじゃとどこかで思っているのでそれを見る

それが大勢に広まり、いつしかスタンダードな考えとなる。それは人類が大陸間を移動することで、誰かが似た話を伝え体験し、そのサイクルが世界中に広まる

つまり、正しいからこそ大勢が体験するのではなく、広まってしまったからそれが「正しさ」を生んだのだ


 似たような話に、「神様」がある。
 宗教をまじめにやっている人には届かなくていいが(読まないことを祈る)—


●神は、すべて人間が創造したものである。
 唯一の例外はこの宇宙のクリエイターとしての存在だが、それは作ったあとは特にこの世界がどうなろうが知ったこっちゃなく、人間が思うような「神」とは呼べない。

 神は不死ではなく、有限的存在である。ある方法で滅する(殺す)こともできてしまう。(ただし理論上できることと実際にできることとは違う。かなり難しいと思って間違いない)


 ある霊や妖怪とのとのバトルを描いた少年マンガで、感心した話(設定)があった。


●その神のことを信じている人間(存在を知って認識している人間)がゼロになると、その神は消える(存在できなくなる)という原理。


 一般の感覚からすると、人間が信じようが信じまいが神は揺るがない絶対存在である。でも筆者は、このマンガが言うほうが当たっていると思う。
 長々と述べてきたが、すべての人生に絶対に必要なことなんかない、ということが結局は言いたいわけだ。
 各人が、それぞれに必要だと思うもの、大事に感じるものだけを追えばいい。間違っても「自分が知らないだけで、知らないとマズイことってあるんじゃないのか」と恐れてビクビク生きなくていい。あなたが「目に映るすべてのことはメッセージ」だと思って自然に接してさえいたら、あなたに本当に必要なものはその必要なタイミングで与えられる。

 それを信じてのびのび生きてほしい。これを信じないと、受け入れないとだめだぞーという脅しには負けないでほしい。