「日露和親条約」の話(324号2017年01月号) | 仙台市青葉区八幡2丁目・小田眼科ニュース

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第324号2017年01月号「日露和親条約」の話

 
 昨年末に定刻より約3時間遅れで到着されたプーチン大統領と安倍首相の会談が長門で開かれました。プーチンさんの遅刻はこれまでもよくあったことで、彼はこれで、交渉を優位に進められると考えているようです。
 北方四島返還について、いくらかの進展があるかと淡い期待を持ったのですが、それは全くの期待外れでした。両首脳は「日露双方の立場を害さない形で4島での共同経済活動に向けた協議を始めることで合意した。これは、平和条約締結に向けた重要な一歩だ」と報告しました。この会談は「引き分け」というのが大方の見方です。
 日本側からプーチン大統領に「プチャーチン来航図」の複製が贈られました。

 それで、今月は「日露和親条約」の話です。

 幕末、ペリーが来日して日本は開国やむなき事態に追い込まれました。ハリスにより「日米和親条約」が締結され、日本は250年続いた鎖国に終止符を打ちました。日本開国を知ったロシアは、500名のロシア兵を乗せた軍艦ディアナ号(艦長プチャーチン)を下田に派遣し、幕府との交渉に当たらせました。
 1854年12月22日(嘉永7年11月3日)、下田の玉泉寺で、第1回日露会議が開かれました。ここで、プチャーチンは「日米和親条約と同じく日露和親条約を締結したい、それにはまず両国の修好のため国境を定めることと、通商開始を決めることにある」と述べ、日本がロシアとの通商開始に同意するなら、エトロフ島を日本領土と認め、樺太についても譲歩の用意があると述べました。

 またプチャーチンは「日米和親条約」の内容を公表するよう要求しましたが、幕府川代表の川路らは即答を避けました。
 ついでプチャーチンは開港する港を問題にし、下田は適当でないとして、大坂、箱館、兵庫、浜松などを希望しましたが、日本側は下田開港を譲らず、これについても後日、話し合うことして初日の会談は終わりました。
 これから本格的な交渉に入るべく日露双方とも意気込んでいましたが、その翌日、午前8時すぎ伊豆地方に大地震(M8.0?)がおこり、下田に大津波が襲来しました。この地震は後に「安政東海地震」と名付けられましたが、その地震から32時間後に、南海道沖を震源とするM8.4の「安政南海地震」が発生し、近畿から四国、九州東岸に至る広い地域に甚大な被害をもたらしました。

 この2地震による被害があまりにも甚大であったため、その年の元号が「嘉永」から「安政」に変えられました。
 
 プチャーチンの秘書官として下田にいたゴンチャロフ(後に小説家)はこの津波の有様を以下のように記録しています。「12月23日午前10時、地震が起き、下田湾は大きな津波に襲われた。波は岸に当たって跳ね返った。ここにさらに大きな波がきて二つの津波がぶつかり合った。湾内に溢れた水は円周運動をしながら全湾を洗い、陸上に跳び上がって、下田の人たちが難を避けている高い所まで押し寄せ、下田の町を洗い去った。それからまた新しい津波がやってきた。次第に力を強めた渦巻きは陸上に残っていたすべてのものを破壊し、洗い流し、運び去った。湾内は家屋や舟の破片、死骸、器物など、ありとあらゆる雑多なもので埋め尽くされた。」
 まさに東日本大震災の有様そのものです。
 
 この津波でプチャーチンの旗艦ディアナ号も大破し、曳航される途中、戸田(ヘダ)沖で沈没しました。

 被災したプチャーチン等に日本側は将兵らの救護、食事、住むところ、帰国する船の手当、などについて協力しました。戸田ではロシア兵帰国のための船(ヘダ号)が建造されました。日本の船大工は西洋風の船の製造知識と技術を習得しました。
 
 この混乱で一時中断していた交渉が再開され「日本国と魯西亜国との境 ヱトロプ島とウルップ島との間に在るへし、カラフト島は日本国と魯西亜国との間に於て界を分たす、是まて仕来の通たるへし」と、日露和親条約が締結されました。
小田眼科医院理事長 小田泰子
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