「私の8月15日(15)東京裁判」の話(315号2016年04月号) | 仙台市青葉区八幡2丁目・小田眼科ニュース

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第315号2016年04月号「私の8月15日(15)東京裁判」の話

    第二次世界大戦が終わった後、日本の戦争犯罪を裁く「極東国際軍事裁判」(東京裁判)が開かれました。この裁判はドイツで行われた裁判(ニュ-ルンベルク裁判)とつじつまを合わせるべく開かれたもので、ユダヤ人の虐殺を行ったドイツと日本とでは、多くの点で異なっていたにも拘わらず強引に裁判が行われました。

   それで今月は「私の8月15日(15)東京裁判」の話です。

   東京裁判は、昭和21(1946)年から昭和23(1948)年まで、東京・市ヶ谷の旧陸軍省参謀本部で開かれました。執行委員会(検察官)11人、裁判官11人はすべて戦勝国から選定され、中立国からは任命されませんでした。弁護人団は日本人8人、アメリカ人20人で構成されました。

 開廷の冒頭、主席検察官キーナン(1888-1954)は「昭和3(1928)年から20(1945)年に至る期間、日本はナチス(ドイツ)やファシスト(イタリア)と同質の軍閥によって支配されていた。その軍閥により日本国民は勝ち目の無い戦争にひきずりこまれた。日本国民は被害者である。日本軍部は文明に対し宣戦を布告した。この裁判は全世界を破滅から救うために断乎たる闘争を開始する」と起訴状を読み上げました。  太平洋戦争の始まりは昭和3(1928)年に起きた満州事変からであるとする考えは日本には承服しがたいものでした。日本はポツダム宣言は受諾しましたが、受諾したのは太平洋戦争についてのみで、それ以前の満州事変や日支事変は問題外と日本は理解していましたが、連合国側は聞く耳を持ちません。

 弁護人となった清瀬一郎(明治17-昭和42)氏は、この法廷には「平和、人道、殺人」に対する罪を裁く権利が無いと、管轄権忌避動議を行いました。ポツダム宣言の時点では戦争犯罪は交戦法違反のみでした。その時に法整備がされていなかった平和、人道、殺人に対する罪を裁く権利がないのは当然です。検察団は痛いところを突かれました。数日後に裁判長は「この問題については将来、宣告する」と返事をしましたが、結局、その説明は無いまま、裁判は終わりました。

 この裁判は世界中から批判を浴びましたが、GHQによる言論統制の厳しかった時代、日本のメディアが自由に報道し批判できる状態にはありませんでした。

 裁判で弁護人の1人となったファーネス(1896-1985 米軍人・弁護士)は、裁判の公平を期すために中立国側からの判事が必要であると言い、ブレイクニー(1908-1963 米軍人・法律家)は「戦争そのものは国際法上合法である。戦争は国家の行為であって個人の行為ではないから、戦争犯罪人として個人を裁くのは間違いである。戦争が合法である以上戦争での殺人は合法である。そうでなければ広島・長崎への原爆投下、日本の都市に無差別爆撃を行った国の人間に、被告を裁く資格は無い」と述べました。このブレイクニーのバクダン発言は同時通訳が即時に停止され、多くの日本人傍聴者には聞き取れませんでした。

 さらに、裁判そのものへの批判として、弁護側が提出した3,000件を超える資料(日本政府・軍部・外務省の公式声明等を含む第一次資料)の2/3が却下されたにも拘らず、検察側の資料は伝聞や偽証と考えられるものでも、その信憑性を確かめること無く採用されました。この時用意された日本側の資料は『東京裁判却下未提出弁護側資料』として出版されています。  結局、この裁判で7人の日本政府高官が死刑になりましたが、これは裁判という名を借りた黄色人種への人種差別が基礎にあるリンチ、「勝者の裁判」などと言われています。

 昭和27(1952)年に、日米間で講和条約が締結されましたが、未だに東京裁判の不当性は、つまびらかに検討されていません。                       
小田眼科医院理事長 小田泰子
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