「私の8月15日(13)学校給食」の話(313号2016年02月号) | 仙台市青葉区八幡2丁目・小田眼科ニュース

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第313号2016年02月号「私の8月15日(13)学校給食」の話

   戦後の食糧難は、それを経験した人、大人にも子どもにも決して忘れる事ができませんが、あまり口外はしたくない思い出です。

 それで今月は「私の8月15日(13)学校給食」の話です。

    戦後、GHQの医官として赴任したサムス(1902-1994)は日本人の食糧事情を調査し、深刻なタンパク質不足にあると結論しました。当時、一般の日本人の食生活は米、芋などの炭水化物が主体でした。サムスが日本人はタンパク質を魚から得ていると想定していましたが、魚を日常的に食べるのは海岸に近い所に住む人だけで、輸送がしっかりしていなかった時代、多くの日本人は特別な場合、お祝い事、お正月など以外には魚や動物性タンパク質を食べる習慣はありませんでした。大豆の植物性タンパク質がその不足を補うものでした。従って日本人は常に栄養不良の状態にあり、貧弱な体格で、結核など慢性病に対する抵抗性が低いとサムスは結論しました。

 第二次世界大戦の始まりとほぼ同時の昭和16(1941)年12月、日本軍がフィリピン(以下、比)に上陸しました。日本軍の優勢を見た比軍総司令官マッカーサーはオーストラリアに逃がれました。このときに、マッカーサーと行動を共にした将兵たちが「バターンボーイズ」で、マッカーサーとは強い信頼関係で結ばれていたといわれます。サムスは「バターンボーイズ」の一人でした。

 戦後、来日したアメリカの元大統領フーバー(マッカーサーを任命した大統領)は厳しい日本の食料事情を知って、マッカーサーに食糧の緊急輸入と世界中から救援物資を募ることを提言しました。その結果、アジア救援公認団体からララ物資、ユニセフからも多くの食料が送られ、日本国民は飢えから解放されました。これは、反日感情が激しい中、多くのアメリカ人や関係者の善意の贈り物だったのです。

 フーバーは、さらに学校給食の導入を提案し、サムスは日本政府に子どもたちの栄養補給のため学校給食の導入を要請しました。しかし、日本の為政者や官僚は即戦力にならない子どもの栄養補給は後回しで良いと考えました。そこで、農林省は大人の食糧が不足しているのに子どもの食糧を調達できないと言い、文部省は学校給食のために人を雇う余裕がないと答え、大蔵省も予算がないと拒否しました。

 そこで、サムスは、その食糧は後で日本政府が返してくれることを条件に米軍の食糧を供与することを提案しました。日本政府は「米軍から食料を借りても返せる見込みがない。だから学校給食は不可能である」と返答しました。これを聞いたサムスの顔色が変わりました。日本の官僚たちは彼の怒りを知って沈黙しました。

 学校給食の導入を諦めなかったサムスは、米軍が差し押さえた日本軍の缶詰 約5,000トンとララ物資の一部を給食にまわし、特に食糧事情が悪かった首都圏から学校給食を始めました。やせ細っていた子どもたちの顔は短期間のうちにふっくらとしてきました。

 サムスはタンパク質の補給として一番良いのは牛乳ですが、生の牛乳を供給するために必要な冷蔵庫などの設備が日本には無いことから、保存が容易な脱脂粉乳を給食に取り入れました。脱脂粉乳は保存性や栄養価などは評価されますが、当時の脱脂粉乳を飲んだ者は、一様に臭くて不味かったと言います。でも口に入る物が貴重だった時代、これを飲まずに捨てたという話を聞いたことはありません。

 当時の給食に供された脱脂粉乳はバターを作った残りで、家畜の飼料用として粗雑に扱われていましたので、輸送途中で変質したとも言われています。

 ララ物資は昭和21年11月から昭和27年6月まで、ユニセフからも昭和24年から昭和39年にかけて、脱脂粉乳を始め多くの食料や日用品が日本に届けられました。この時、送られた物資の総額は推定で400億円(当時)という莫大な金額にのぼったと考えられます。                        
小田眼科医院理事長 小田泰子
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