「私の8月15日(11)本土空襲を行った男」の話(311号2015年12月号) | 仙台市青葉区八幡2丁目・小田眼科ニュース

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第311号2015年12月号「私の8月15日(11)本土空襲を行った男」の話

   12月8日、太平洋戦争開戦76年目になりました。この戦争末に日本中が無差別に空襲を受けました。初めて日本本土が空襲をされたのは1942(昭和17)年4月18日で、その時、東京・川崎・名古屋・四日市・神戸が攻撃されました。その後、空襲は徐々に頻度と激しさを増し、昭和20年8月14-15日には熊谷(B29、89機。死傷者687人)、伊勢崎(93機)、小田原(死者30-50人)、土崎(132機。死者250)と、敗戦の日まで空襲が続きました。

   それで今月は「私の8月15日(11)本土空襲を行った男」の話です。

   アメリカ軍による空襲は最初は主として軍需工場を目標とし、日本軍による高射砲攻撃を避けて高い所から爆撃をしましたので、命中率が低く損害はそれほど多くはありませんでした。これを改良する為にアメリカ軍は、ドイツや中国で絨毯爆撃を行って成果を上げたカーチス・ルメイ(1906-1990)を日本に呼び、空爆を指揮させました。ルメイは当時最新鋭のB29爆撃機をで、高射砲攻撃を避けるために夜間を選び低高度から焼夷弾を投下する無差別絨毯爆撃を都市部に行いました。また、ルメイは耐火性の低い日本の家屋に強い威力を発揮する新たな焼夷弾を考案し、それを使って3月10日(当時は陸軍記念日)の東京大空襲をはじめ全国の都市を攻撃し焼き払いました。
 東京大空襲では10万人を超える人が亡くなりました。これについてルメイの上官は「この任務で君の部下はどんなことでもやってのける度胸があることを証明した。空軍は太平洋戦争に主要な貢献をなしうる機会を手にした」と、ルメイに賛辞を送りました。
 それ以後、本土空襲は次第に規模と激しさを増し、日本は「皆殺しのルメイ」を恐れ憎みました。8月6日に広島、次いで9日に長崎に原子爆弾投下を行ったのもルメイの指揮下にあったB29爆撃機でした。その後も空襲は続けられ、8月9日から敗戦の日まで、7日間に12回、それによる死者は約2,500人に達しました。戦後、ルメイはアメリカ空軍の最高位である参謀総長に昇進しました。
 敗戦から9年後の1964(昭和29)年12月7日、第一次佐藤栄作内閣は、ルメイに「勲一等旭日大綬章」の授与を決定しました。この叙勲は、日本の航空自衛隊が「航空自衛隊創立10周年式典」にアメリカ空軍参謀総長を招待したことに端を発します。防衛庁が調査し、審査した結果、慣例により、ルメイへの授章が決定したといわれます。
 推薦は防衛庁長官・小泉純也と外務大臣・椎名悦三郎の連名で行われ、防衛庁からは「日本の航空自衛隊育成に協力があった」と理由がつけられました。勲一等旭日大綬章という最高章になったのは、ルメイがアメリカ空軍の最高幹部であったためで、これも慣例に従ってのことだそうです。
 ルメイが東京大空襲や原爆投下を行った部隊を指揮していたことから、この叙勲に大きな批判が起きました。社会党、原水爆禁止団体、被爆者などは国民感情として納得できないと反対しました。「東京大空襲や原爆投下をした者に叙勲するのは不適切ではないか」という国会質問に対して佐藤栄作内閣総理大臣は「今はアメリカと友好関係にあり、功績があるならば過去は過去として功に報いるのが当然、過去にとらわれず、今後の関係、功績を考えて処置していくべきもの」と答え、防衛庁長官の小泉純也は「功績と戦時の事情は別個に考えるもの。それに原爆投下を命令したのはトルーマン大統領である」と答弁しました。
 勲一等の授与は天皇が直接手渡すのが通例ですが、昭和天皇はこれを行わず、入間基地で浦茂航空幕僚長がルメイに授与しました。  
小田眼科医院理事長 小田泰子
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