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旧聞になりましたが、参議院選挙で民主党が勢力を盛り返しました。このように一つの勢力が強くなり過ぎたら、それを揺り戻す動きが生まれる。日本の民主主義も成長しつつあると心強く思いました。今後、これがどのような影響を生むのかを、しっかり見ていきたいと考えています。
暑かった夏、記録破りの高温の夏を何とか乗り越えました。
7月末から国際女医会出席のためにアフリカのガーナへ行って参りました。
今月は
「アフリカ・ガーナ」の話です。
ガーナ共和国は西アフリカ、ギニア湾に面した所にあります。経度はイギリスのグリニッチ天文台と同じで0度、赤道がギニア湾の中を走っていますので、ガーナは経度緯度ともに0度の所にあり、世界地図の原点に位置しています。「地球の中心にようこそ」という歓迎の言葉に、一瞬戸惑いましたが、地図を思い浮かべて納得しました。湾とはいうもののギニア湾が面する大西洋の波は高く荒々しく、太平洋とは異なる印象でした。
ガーナの気候は雨期ということで、仙台のお盆の頃のような気温と湿度で快適とは言えませんでした。ガーナの首都アクラはサバンナ地域にあり、少し北に行くと熱帯雨林となり、緑が多く、バナナは一年中実り、マンゴーも植えて3年で実をつけるそうです。
ガーナは日本の2/3ほどの面積の国で、人口は東京都の2倍の約2300万人、公用語は英語です。歴史的にガーナは、ポルトガル・スペインなど多くの国に征服されましたが、最後の征服者がイギリスでした。ガーナには多くの部族があり、それらの部族間に共通の言語がないために征服者の言語で意志疎通をすることになったのです。
かつて、ガーナは奴隷貿易の拠点の一つで、多くの奴隷が捕らえられ、送り出されました。奴隷を船に積むまで収容した施設が博物館となっており奴隷貿易の生々しさを伝えています。捕獲された奴隷は男女に分けられて、窓のない土むき出しの床、狭い空間に収容されました。
大航海時代にイギリスは海流を利用して、ヨーロッパから繊維製品や武器を積んで西アフリカへ向かい、アフリカでそれらの商品を奴隷と交換し、西インド諸島に行き、そこで奴隷を砂糖・綿などと交換し、ヨーロッパに帰る、いわゆる「三角貿易」を行い巨大な利益を得ました。西インド諸島に船上げされた奴隷はアメリカ南部に運ばれ綿の生産に寄与しました。
この三角貿易の変形としてイギリスは東南アジアで生産されるアヘンを清国に持って行き、見返りに茶や陶器を得ました。アヘン戦争のきっかけとなった貿易です。
ガーナは1957年にエンクルマによってイギリスから独立しました。以来、紆余曲折はありましたが、現在も共和制を維持しています。しかし、建国の父エンクルマの「大いなる理想」は未だ実現せず、ガーナは世界でも最も貧しい国にとどまっています。日本との国交樹立は1959年で、日本はガーナからカカオ、マンガン、たこ・いか等を輸入しています。日本大使館を表敬訪問して参りました。
ガーナは野口英世が黄熱の研究の為に行き、黄熱に罹って死亡したところですが、野口の最後の言葉は「なぜだ?」だったそうです。51歳でした。研究所が保存されていました。昨年、小泉前首相がガーナを訪問し、医学者を対象とする「野口英世アフリカ賞」を作りましたが、2008年に日本で開催されるアフリカ開発会議で表彰が行われるということです。
奴隷貿易を思い、北朝鮮による拉致に思いを致すときに、幕末開国を境に日本が列強の植民地となる危険が大いにあったことを現実味を持って考えることができました。右往左往した当時の人々の心労と努力、先見の明に改めて感謝しました。
小田眼科医院
理事長 小田泰子