若葉の候。 | 蝋画塾 Atelier Berankat のブログ

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第二次大戦中に開発された、「蝋画」という描画技法を紹介するブログです。

 

 

 

今年もドクダミが生い茂ってきた。まだ葉が柔らかい。

画像定着後、水分を含んだ状態では千切れやすく,

葉の形状を保ったまま乾かすのも困難なので、

もう少し成長を待つことにする。

 

 

水洗い(ドクダミと蔓日日草)       乾燥した状態 (ドクダミ)

                  

 

紫外線が強くなってきて

蔓日日草も、画像を焼き付ける過程で

冬場のような緑色はもう残らない。

 

冬の蔓日日草

 

 

ゴ―ルデンウィ―ク中に採集した蔓日日草は、

日焼けの部分の透明度が高く、下地が透けてしまう。

ドクダミ同様、まだ葉が若く薄いのだろう。

 

 

 

上の写真は、昨年夏に庭の裏手で見つけた植物。

タケニソウという名の毒草だと、先日やっとわかった。

多年草で今春も新しい葉をつけている。

日本では雑草扱いだが、イギリスでは園芸品種らしい。

 

 

タケニソウの葉に、昨年焼き付けた大叔父の像。

この変わった形の葉に素手で何度も触ったが、

かぶれたりはしなかった。

毒草と言っても、食べなければ問題ないようだ。

 

大叔父は日中戦争で中国に出兵する前、

福岡の小倉の住んでいたことは、前々回に書いた。

http://ameblo.jp/exwax/entry-12256383723.html

祖父母の時代を調べていると、戦争が落とす影に出会う。

 

家の戸籍には、高祖父母までの名前が載っている。

曾祖母と祖母が埼玉出身、父方の家系は東京都内の地名ばかり。

なぜ大叔父の欄にだけ、唐突に福岡の小倉が出てくるのだろう。

軍隊内の配属の問題なのだろうか。

 

 

東京砲兵工廠(ウェキペディアより)

 

東京には、明治から陸軍の兵器工廠(へいきこうしょう)が存在した。

工廠(こうしょう)とは、軍隊直属の軍需工場のこと。

その施設は、大正12年の関東大震災によって壊滅的打撃を受ける。

復旧に伴い、誘致に成功した小倉への移転が決定する。

 

昭和6年から10年にかけ逐次移転が行なわれ、小倉工廠が完成。

後に陸軍兵器本部も設置され「小倉造兵廠」と改称し、

最盛期には従業員4万人規模の巨大軍事施設が誕生する。

 

戦前の荻野家は荒川区尾久にあり、工廠のあった小石川に近い。

もしかしたら大叔父は兵器工廠で働いていて、

工廠移転と共に小倉に転居したのではないか。

 

年代的にも矛盾なく符合するが、

戸籍と限られた資料からの連想だけで、根拠はない。

確かなのは、昭和11年に小倉の女性と結婚し、女の子を一人もうけ、

その約1年半後、中国で戦死したということだけだ。

 

 

 

小倉陸軍造兵廠跡の碑(ウェキペディアより)

 

小倉は、そんな造兵廠が存在する軍都であったため、

広島に原爆投下された時は第二目標にされ、

長崎に落とされた時は、実は第一目標だった。

 

原爆投下目標が米軍の中で二転三転していく様は、下記資料に詳しい。

「米軍資料 原爆投下報告書」東方出版(P195~)。

長崎は最後の最後で、外された京都の代わりに選ばれている。

 

8月9日の小倉上空は視界が悪く、日本軍の反撃も激しかったため、

投下を断念し、第二目標の長崎へ向かったという。

小倉上空はなぜ視界が悪かったのか、明確な理由は解っていない。

残された大叔父の家族は、この事実を知った時どう思っただろう。

 

仮に最初の標的であった小倉市に投下されていた場合、平坦な土地が広がり、

本州と九州の接点に位置するために、関門海峡が丸ごと被爆し、小倉市および

隣接する戸畑市若松市、八幡市、門司市、即ち現在の北九州市一帯と下関市

まで被害は広がり、死傷者は広島よりも多くなっていたのではないかと推測される。

(ウィキペディアより)

 

 

 

先日、「横から見た原爆投下作戦」という本を図書館で見つけた。

この本は終戦の年、8月8日に誕生日を迎える12歳の少女が、

その日を心待ちにしながら、誕生会の計画を練る場面から始まる。

 

この少女、秋吉美也子さん(著者)が長じてから、

福岡で過ごした子供の頃の体験を振り返り、

思い出を検証しながら原爆投下を巡る考察を重ねていく。

 

最後のペ-ジに、こんな問いかけがある。

「北九州市民が長崎の犠牲者に感じている「すまなさ」を

外国人は理解できるだろうか。」

(横から見た原爆投下作戦 秋吉美也子著 P165)

 

長崎の人が自分達の身代わりになった…北九州市民が、

個人差があるにしてもそんな感情を抱いていたとは、

私は想像もしていなかった。

外国人どころか、どれだけの日本人が知っているのだろう。

 

テレビ西日本制作のドキュメンタリ―に、

「煙幕の下で~軍都の記憶~」という番組がある。

8月9日、B29飛来の情報を聞き、ドラム缶に薬品を入れて焚き

上空に煙幕を張った八幡製鉄所の従業員の話。

http://www.tnc.co.jp/enmaku_no_shitade/

 

この従業員の男性は、自分の行為が原爆搭載機に小倉を断念させ

長崎へ向かわせたと考え、長崎の被爆者に強い罪悪感を持ち続けている。

上述の本の「すまなさ」、それを最も強く背負ってしまったケ-スだろう

 

原爆投下目標が変更されたことは、占領軍の情報統制のため、

戦後9年経って初めてメディアが伝えた。

その後、小倉に原爆慰霊碑が建立され、毎年8月9日には、

北九州市民により慰霊祭が行なわれているという。

 

 

 

 

大叔父の事を調べていて、原爆までが視野に入ってきてしまった。  

振り返れば、微量の福島原発由来の放射能が、

庭の土や私の体内に見つかったことが、作品制作の変化の発端だった。

先祖や植物に視線を注ぎながら脳裏に去来した事が、一巡したように感じる。

 

目の前に連なって現れてくる様々な過去の出来事は、

私自身が今、思い起こす必要がある事なのだと思う。

先祖からの問いかけに応えようとする限り、

また何事かを知ることになり、次の一巡が始まるのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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簡単なものですが、蝋画技法の初歩を図解したPDFファイルを、以下から配布しています。

https://ssl.form-mailer.jp/fms/0af30761220259

注:これは実習を伴う教室や講座の受講者に配布している資料ですので、
この資料を見ただけで蝋画が描けるようになる保障はありません。