日本の受験生とその親は、ある一つの物語を信じさせられている。「良い大学に入れば、あとは実力で評価される社会が待っている」という物語である。事実、日本の大学入試そのものは能力主義である。共通テストも二次試験も、点数以外の何ものも合否を左右しない。世襲でも縁故でも東大には入れない。この意味で、「東大は能力主義だ」という主張は正しい。しかし、その先に何が待っているのか。
日本の企業内部の人事・配属・昇進を決めるのは、もはや学力試験の点数ではない。調整能力、前例踏襲である。更には、公然とは語られることのない、血縁と関係性、即ち、元閣僚、中央省庁、特に監督官庁の長、地方行政の長、主要取引先のトップの子弟、の受け入れ、コネ入社、である。規制産業に属する企業にとって、こうした人材の受け入れは、縁故主義という以上に、規制・調達・監督権限との摩擦を未然に防ぐ「保険としての人事」として機能してきた。これが日本のエコシステムの正体である。入口は厳しい能力主義、出口は緩い、血縁主義。 若者や親は「入口を突破すれば報われる」と信じて努力するが、権力配分の本当の勝負は、彼らが挑んだ試験とは別の場所で、すでに決着している。
一方、アメリカという国の設計原理はまったく逆である。アメリカの大学入学は、日本ほど純粋な学力一本の能力主義ではない。レガシー入学、寄付、スポーツ推薦、入口の公平性という点では日本より不徹底だとさえ言える。しかし、その後、一変する。出自が中国出身であろうと、型破りな経歴の持ち主であろうと、成果さえ出せば席が与えられる。世界のAI研究のトップ層に占める中国出身者の割合は、いまや半数近くに達し、アメリカの研究機関で働くトップ研究者に限れば、当のアメリカ出身者を上回るという逆転現象すら起きている。彼らを迎え入れているのは、共感でも温情でもない。彼らが成果を出すからである。そしてこの開放性は、同時に恐ろしいほど非情でもある。成果を出せなくなった者、自国の利益を脅かすと判断された者には、アメリカは容赦なく門を閉ざす。国家安全保障を理由にした制裁、輸出規制、技術流出への強硬な対応、「開かれた実力主義」と「自国優先の防衛本能」はアメリカにおいては矛盾なく同居している。アメリカとは、血縁でも国籍でもなく、「何を成し遂げられるか」だけを問う「開かれているが非情な国家」である。
二つのエコシステムのどちらに、子どもを託すか?
日本は、入口で厳しく選別し、出口で緩く血縁に譲る。アメリカは、入口で緩く受け入れ、出口で厳しく成果を問う。この対比が意味するのは、単なる制度比較ではない。あなたの子どもがどれほど優秀であっても、日本という舞台で最終的にものを言うのは、実力ではなく生まれである可能性が高い、という厳然たる事実である。逆に、アメリカという舞台では、生まれがどうであれ、成果を出し続ける限り席が与えられ続ける。問うべきは、大学の偏差値ではない。その先にある社会が、実力を本当に評価する社会なのかどうかである。