精神疾患 と 私 と 内なる自分 | いとっしーのもじ文字落書き(笑)

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完全に主観のみで書いています。

私における精神的な疾患とはなんだったのか

一般とは少し異なるような観点から振り返ってみました。



医師「君は〇〇病です。」

〇〇病とは うつ状態になったり、人との関わりに消極的になったり、自分を否定的にみたり、、、と病気の説明をうけた。



その後、待ち望んだ時間。処方薬発表の時間となる。

正直私は、診察室という、あの空間においては、医師の言葉よりも 処方薬の方が 気になってしようがなかった。



医師「君は 〇〇病だから この薬を出します。」これを飲んで様子を見てください。



私「わかりました! これで良くなるぞ、、!」



私は待合室に戻るなり、その薬について即座に調べ始める。そうやってインターネットで調べていると、どうもその薬は他の患者さん達からは評判が悪いようだ。

「この薬効かない」、「かえって苛立つ」、「これならあれの方がいいよね」など色々なネガティブ情報が書かれていた。



その情報を見た後の私には、もはや診察室で処方薬を聞いた時の 絶対的な安心感は 完全に消えていた。

既にその薬によって本来もたらされる効果、安心感、快復へのイメージは消え去っていた。



そしてこの後さらに処方薬に対し敏感になっていく。専門家である医師が出すのだから少なくとも一定の信頼はあるはずだ。しかし自分で情報を仕入れ、悪評の多い薬は効かないというイメージは強く刷り込まれていき、結果医師(所詮他人)が処方する薬は効かないのではないか。という思考に入ってしまう。そうなると、もう医師が何をしても処方薬が効果的に効くことは無かった。



さらに私自身のイメージは

「医師が出そうと、結果は全然効かない。むしろ悪化している。」という結論に纏まっていた。



しかし 後に興味深いことが起こる。

ある時、私自身が調べた情報を元にして医師に「この薬を処方できないか?」と打診してみたことがある。

結果はどうだったか。



なんと驚く事に、逆に自分で調べ医師に打診した薬は驚くほどの効果を発揮したのだ。

私というド素人が調べて打診しているのにである。



普通に考えれば

専門家である医師が提示・処方した薬、その組み合わせの方が効果はあがるはずである。

しかし実際には、医師が提示した処方は全く効く事なくむしろ体調を悪化させたのに対し、

素人であるはずの私が調べた薬を医師に相談・打診し処方してもらうと これは効果抜群だったのだ。



この医師から出された処方

私が調べた薬 の大きな違いは

医師から出された薬に対しては、はなから効くと思っていない(全く信用していない)こと

私が調べた薬はこれは自分には必ず効果的に作用するはずだと強く思い込んでいる(絶大な信頼感と期待感を寄せている) という違いがある。



結果、これまで効果的に作用してきた薬は

殆どが私が自分で調べ医師に相談・打診した結果 処方された薬だった。



そしてそんな頃から数年経ち、

最近ではその医師から言われた〇〇病とやら、これに自分の処方箋が合致しないことに疑問を感じ始めた。

これは私は本当に〇〇病なのかと。



さらに今の私は〇〇病の症状がかなり改善した。

そしてそこまで到達した今は減薬断薬も容易い事に変わりつつある。



さらにいうならば

その〇〇病とやらを強く意識していた時(〇〇病が自分の精神の中で絶対的な前提として君臨していた頃)

ネガティブポイントでしかなかった ・マイナーな趣味(恥ずかしい)

・自己分析(自己否定しか出来なかった、とことん自分を追い詰めることに躍起になっていた)

・対人関係(私なんかには縁のない世界。当然好かれることも無い。会話も出来なくて当然) 

などこれら要素も 今は 当たり前に障害なく出来るようになった。 


一つの転換点は

長所短所は表裏一体という思考がプラスに向き始めたことである。

すなわち〇〇病の時ネガティブポイントとして感じていたことをプラスに、ポジティブに捉え、その能力を使えるようになったのだ。



マイナーな趣味は 自分だけが持ち得る楽しみであり、強力な内発的動機づけであり、独特の価値観の根幹にもなっている。

自己分析は自分否定の時とことん自分を責めたからなのか、自分のことを良いも悪いもよく知っており、自己肯定も強く出来、自分が自分を支えるということが出来るようになった。今は自分の中にある潜在的な何かを探しだそうと必死だ。私と内なる自分が対等に対話出来るようになったのだ。

対人関係は 人に好かれず嫌われずという当時苦手とした、誰からも興味を抱かれないと感じていたそのポジションが

今では誰とでも対等に接することが可能な中立的と言えるポジションが自分の対人関係における基本ポジションとして確立されてきた。



数年前とは 雲泥の差である。



精神的な悩みとは 詰まる所、なんなのだろう。


当然人それぞれ違うから決まったものはないけれど、


私においては

内なる自分との葛藤

という面も大きかったのかもしれない。


私と内なる自分が異なる意見の場合、私の意見は跳ね返される。


私と内なる意見が同一の場合、

私の意見は内なる自分にも受容され、実際に私の思う形になってきたのかもしれない。