「今まで何百回富士山を見てきて、一番美しく見えた!」
勝つため、じゃない。
勝つための練習をするのに
力が必要だった。
この二つは全然違うんだよ。
「ルール」、堂場瞬一
勝つための練習をするのに
力が必要だった。
この二つは全然違うんだよ。
「ルール」、堂場瞬一
昨年、<富士講の旅>
をガイドした梅ちゃんの報告をシェアしたい。
『日常生活の場・東京から、すべて歩いて日本一の富士山の山頂を目指す「旅」。』
これにビビッときた人、ビビッてしまった人。
人それぞれ、それでいいと思う。
おそらくはビビッてしまった人のほうが多かったとは思うけど、
これにビビッと来た人は、もうその瞬間から何かが動いていたんだと、
これは参加してくれた仲間の言葉から、結果的に感じられた。
ビビッときて、「やってなんぼ」と始まった、
本当にやりきれるかどうか、やってみないとわからない旅。
「本当にそんなことできるの?」という、そこはかとなく蔓延する不安には、
「やってみなければ、できるかどうかなんて、誰にもわからない。」という信念と、
「やってみて、やっぱりダメなら、本当にダメなら、その時点でその次善策を考えれば
いいじゃん。」
やってしまった今、考えてみれば「ま、こんなもの。」程度にすぎない。
これは、「できるかどうかわからない、何か困難なこと」に立ち向かったことのある人なら、
誰しも経験したことのある感情なんだと思う。
「あれだけ心配したのに、なんだこんな感じかよ。」
拍子抜け、とはまさにこんなもの。
これは、ある意味、何かをやりきった者だけが感じられる特別な感情なんだと思う。
頂上に登り切った瞬間、そんなに感情が高ぶることがなかったのが、正直な感情。
「だって、辛かったけど、それなりに頑張ったら、できちゃったんだもん。」
自分自身にとって、富士山に登るのは、もう片手では足りなくなっているくらいだし、
頂上が見えてきたときに、歩きながらこれまでのことを反芻している時にちょっと涙腺
が緩んだくらいだ。
それより、富士吉田市内に着いて、大きな大きな裾野を広げる富士山を間近に見た時が、
「今まで何百回富士山を見てきて、一番美しく見える!」と心底思えた自分に感動したかな。
「富士山が美しくて感動した」というより、「そんな風に感じる自分」に感動した(笑) 。
「いやいや、さんざん歩いてやっと見たんだから、そりゃ感動するよね。」という
自分自身の想像を、はるかに超えた感情を抱いてしまって、
そんな自分がおかしくてたまらなかった。
一番自分の涙腺が緩んだ瞬間は、富士山頂の剣ヶ峰で読んだフェイスブックに書かれた
お祝いメッセージ
だった。
今回は道中、ことある度にフェイスブックページに投稿し、
その「イイネ」の数とたくさんのコメントに励まされた。
現代版富士講と称し、「たくさんの仲間に見守られながら歩く」というのが、
コンセプトの一つだったので、
そのコンセプト通りに、たくさんの方に見守られていたことが、嬉しかったし、
励みにもなった。
なので、当然、旧知の仲間から「イイネ」がつき、コメントをいただき、
嬉しかったのは間違いのですが、
そのなかに一件、隊長を含めた参加者の誰もが知らない方からのメッセージがあって、
「はじめまして。今までずっと影ながら応援してました。ここから見る富士山は雲の中ですが、
その中でみなさんが頑張って・・・」というような内容で、これには本当に胸を打ちました。
自分たちが好き勝手にやっていることを、自分たちを全く見ず知らずの人が応援してくれて、
しかも、実際にこの富士山に私たちがいることを知って、今まさに見上げてくれている。
その事実が、この上なく嬉しかった。
見ず知らずの人たちも含めて、こうして応援してもらえるのが、
フェイスブックを通じた「現代版富士講」の姿なんだな、と改めて思えました。
そういった意味で、今回の反省点の一つには、
事前の告知が低調だったことがあげられます。
参加者が少なかったのは、いろいろ理由があると思うし、
仕方がない部分もあったと思います。
ただ、もう少し、もっと爆発的に応援者=講としての参加者を増やすこともできたのかと
思います。
講=応援者としての参加者をもっと増やしていくことができれば、
「現代版富士講」として、また別の盛り上がりを迎えることができたかもしれません。
一方で、「報告しなきゃ。」とスマホ画面に熱中して、
ここにいない誰かとつながろうとするあまり、
その瞬間、今、目の前の仲間との会話が疎かになりがちだったことも反省点の一つ。
休憩中、気が付くと各人がそれぞれスマホに向かっていたというのが、ちょっと滑稽だった。
今回は「逐一報告する」ということも「現代版富士講」の構成要素の一つと割り切ったものの、
その点も、何か改善すべきかと思いました。
もう一点の反省点としては、
「江戸時代からの富士講」というものにもう少しこだわってもよかったのかなと思っています。
この点については「事前に学習するものではなく、やってみて感じるもの」と
思っていたこともあり、
浅間神社でのお祓い、天拝の宮でのお祓いと
要所要所で富士講としての神事を、江戸時代からの富士講の文化の継承という意味で
体験できましたが、もし、そのあたりの富士講の事前学習ができていれば、
その捉え方も違っていたのかな、とも思いました。
また、今回は歩くことで夢中でしたが、道中には旧甲州街道の遺産も少なからずあり、
そうした歴史を含めて「旅の原点」としての「歩く文化」にも焦点があったように思います。
今回は、初めての取り組みということで、どちらかというとチャレンジ的な要素が
強くなってしまいましたが、
来年以降、実現できるのであれば、そのあたりへも取り組んでいきたいですね。
ビビッときたけど、日程的に行けなかった方、
今回はビビッてしまったけど、やはりちょっと気になる方、
来年は、そんな方々と一緒に、また新たな「現代版富士講」にチャレンジしたいと思います。
日程調整、コース決めの時点から、そんな皆さんと一緒に作っていく、
オーダーメイドな旅にしていければと思います。
まだまだビビッている人、自分には無理なんじゃないかなと思っている人も、
「それでも、なんか引っかかっているんだよな~」という人は、
ぜひ、自分自身の心の声に正直になってあげてください。
「ひっかかるものがある」のは、心の中で「やりたい!」って言ってるんだと思いますよ。
「現代版富士講」
この言葉に対して心の中に引っかかるものがある人は、
ぜひ、来年一緒に歩きましょう。
一歩踏み出すことのできた人は、あとはそれをただただ22万7259回繰り返せばいい。
東京から富士山を目指す、そんな大きな目標も一歩一歩の繰り返しだということ、
それは我々がここに証明しました。
一歩踏み出すことができる人であれば、誰にでもできることだと思いますよ。
あとはただ、22万7259回繰り返せばいい、単純な話ですから(笑)。
2014年夏、
現代版富士講 現地ガイド
大きな仕事は、あるところから
常識を超えないと駄目なんです。
理性だけではないんです。
ジャンプするのです。
証拠はあるの?
と言われたら証拠はない。
しかし必ずこうなるはずだ、
あるいはならせてみます、
という研究者の直感や
心意気が大切になってくる。
科学の扉をノックする[村上和雄]、小川洋子
常識を超えないと駄目なんです。
理性だけではないんです。
ジャンプするのです。
証拠はあるの?
と言われたら証拠はない。
しかし必ずこうなるはずだ、
あるいはならせてみます、
という研究者の直感や
心意気が大切になってくる。
科学の扉をノックする[村上和雄]、小川洋子





