月曜の朝いち。
アラームではなくチャットの通知で起床。
送り主は後輩の高崎智矢。
メッセージは勢いがありすぎて、もはや勢いそのもの。
「先輩!
例のエントランス照明、A案でいけます!
ユーザー動線、ぜったい迷いません!
照度も十分です!
もう決めちゃいましょう!」
添付の図は、一箇所だけが見事に仕上がっている。
他はほぼ白紙。
—鼻だけつやつや。
象の話をまだ出していないのに、先に象が出てくる。
こういう日ほど用心。
午前のレビュー。
智矢は早口でアピールを重ねる。
「A案がベスト」
「現場感でわかります」
わかると、わかった気は、文字数こそ近いが中身は遠い。
彼は一を知って十を語るタイプ。
理由は知っている。
認められたい。
だから速い。
速さは長所。
だが今日は広さが足りない。
「一度、保留。
今夜、ヒロミさんの店に寄る。
明日は別の見方で話そう」
夜、スナック「ヒロミ」。
カウンターに座ると、ヒロミさんがコースターに丸を六つ描いた。
仕事の話をする店なのに、紙芝居が始まる感じが嫌いじゃない。
「巧くん、盲人、像をなでるって知ってるよね」
「鼻は蛇
耳はうちわ
足は木。
どれも正しくて、どれも全部じゃないやつ」
ヒロミさんは頷き、六つの丸に小さく書く。
鼻
/耳
/足
/胴
/しっぽ
/牙
「人は、触れたところが世界の全部に見える癖がある。
これを確証バイアスって言うの。
智矢くんは鼻をつやつやにして見せに来た。
かわいい。
けど、像は鼻だけじゃ立たない」
正論は角が立つ。
今日は段取りで伝えることにする。
「否定しない。
触り直す段取りを足す。
見て
聞いて
立って
囲って
結んで
尖らせる。
現場の言葉に置き換えると——」
・鼻=動線:
人の流れを実地で“なでる”。
迷い3秒を体感。
・耳=声:
クレームログと、現場の小さなつぶやきを拾う。
・足=施工・安全:
固定・耐荷重・避難の物理。
・胴=法規・基準:
照度・均斉・消防・景観。壁のルール。
・しっぽ=運用・保守:
掃除・交換。
手が届くか。
・牙=コスト・効果:
初期費・保守費と、尖った効き目。
「六つ触ってからもう一回“像”を描く。
鼻の絵と象の絵は違う。
木を見て森を見ずじゃなく、木を見てから森を見るに変える」
比喩の精度がえぐい。
たぶん今日も助かる。
店を出るとき、コースターは持ち帰りたかったが
たぶん経費にならないので写真だけ。
翌朝。
ミーティングルーム。
ホワイトボードに書く。
「像レビュー(六触)」。
タイトルがつくと、人は少しだけ賢くなる。
「智矢。
A案の鼻は素晴らしい。
つやが出てる。
でも像にしよう。
六つ触ってからもう一回見直す」
「六つ……?」
——褒められたを飲み込んだ直後の戸惑い。
「速さはそのまま活かす。
10分×6本のスプリント。
各パート10分で“触って記録”する。
Yes, ifで条件は固定」
・鼻=動線/10分:
通路を歩き、迷い秒数をストップウォッチ。
・耳=声/10分:
清掃と警備に一問ずつ。
「どこで困る?」
・足=施工・安全/10分:
器具固定と避難距離をチェックリストで。
・胴=法規/10分:
照度・均斉をその場で測る。
条文は番号だけ確認。
・しっぽ=運用/10分:
モップ動線、ランプ交換の手の届きを試す。
・牙=コスト・効果/10分:
A/B/Cの差額と効果を一行で。
「1時間で下描き。判断はその後」
順番が決まると、速い人はもっと速くなる。
道路が空く、みたいなもの。
六十分後、ホワイトボードは数と短い言葉で埋まった。
鼻:
角で迷い1.8秒→0.9秒(細縁テープ追加)
耳:
清掃「水はね」/警備「影で死角」
足:
器具位置、吊りボルト長さ不足(再計算)
胴:
均斉0.46→角度+1°で0.51
しっぽ:
脚立必要(交換頻度と経路)
牙:
A案+8万円
/C案+3万円
(効果差:フォト率+12%見込み)
現場に降りる。
小走りは禁止。
走るとだいたい何かを見落とす。
まずは鼻から。
通路の角でスタッフに歩いてもらい、僕はストップウォッチ。
1.8秒。
角に細縁テープを貼って再計測。
0.9秒。
数字が半分。
数字は偉い。
次は耳。
清掃さんに一問。
「どこで困ります?」
——「ここ、水はねが残るんだよね」。
警備さんにも一問。
「夜、ここ影で死角が出る」。
音の小さい情報ほど効く。
足は器具の固定。
吊りボルトの長さが微妙に足りない。
微妙はだいたいアウト。
再計算をメモ。
胴で照度と均斉。
メーターの数字は正直だ。
角度を1°だけ振る。
0.46→0.51。
たった1°でも、たったじゃない。
しっぽは交換手順。
脚立の経路、どこで詰まるか。
詰まる所はだいたい決まっている。
決まっているのに、毎回詰まる。
不思議。
牙はお金と効き目。
A案は強いが高い。
C案はほどよい強さでほどよい価格。
ほどよいは軽く見られがちだが、現場はだいたいほどよいで回る。
六つを触り直しただけで、会話の重心が変わる。
「A案が好き」
から、「C案で良い理由」へ。
主観の単語が、客観の短文に置換される。
文章が短くなるほど、説明は強くなる。
これはたぶん国語の話だ。
智矢の顔が、“まだ打つ手がある顔”に変わる。
「先輩……鼻は良かったけど、胴と足はスカスカでした。
均斉って、1°で変わるんですね」
「像は1°で変わる。
耳も大事。
『水はね』
『死角』
両方に薄い光の縁を足そう。
牙はC案が効果単価いい。
同点なら“歩幅が楽”で決める」
A案一択だった彼が、C案の理由を自分の口で語り出す。
語尾に自己アピールの焦りがない。
これは珍しい。
いい兆候だ。
人はだいたい自分の声で納得する。
夕方、一次レビュー。
智矢は
鼻(動線)を自信を持って示し
耳(声)と
足(物理)を数字で短く添える。
胴(法規)は条文番号だけ
しっぽ(保守)は交換手順を一言
牙(コスト・効果)は一行表。
担当者が頷くたび、彼の語尾が整う。
文末は姿勢だ。
「いいですね。これでいきましょう」
会議室を出たところで、彼が小声で言う。
「先輩、盲人、像をなでるって、効きますね。
鼻から入っても、像になる」
「鼻から像へ。
順番さえ覚えれば、速さは武器のまま」
夜、再び「ヒロミ」
報告を終えると、ヒロミさんは六つの丸の写真を見て笑う。
「否定せず、触り足す。
短く言う。
今日はそれだけで立ったね」
必要十分。
余計な格言は足さない。
今日は像の話だけで満席。
店を出る直前、ヒロミさんが丸の中心に小さく書いた。
「今ここ」。
四つの輪
(考える
/言う
/やる
/感じる)
を今ここで重ねる。
像は今ここでしか立たない。
座右の銘は長くてもいいが、実行のスイッチは短いほうが押しやすい。
帰宅。
ノートを開く。
三行で止める。
止めるのが継続の技術。
〈初めて〉像レビュー(六触)をテンプレ化、智矢と共有
〈歩幅〉“同点なら歩幅”を智矢の口から言わせる
〈仮説〉鼻→像の順番を癖にすると、承認欲求は可視化された価値へ変換
最後に一行、備忘。
木を見て森を見ず、ではなく、木を見てから森を見る。
—塞翁が馬、だからこれで良し。
今日もまた、1°ずつ像を整え、小刻みに真っすぐ進む。
【像レビューNG】
・鼻のつやで押し切る。
・耳を聞いてメモしない。
・胴を後回しにして条文で溺れる。
・牙だけで決めてしっぽが泣く。