故郷を作る物語『NOMAD メガロボクス2』感想1 | pure fabrication -ANIMATION BLOG-

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人は何故、映像作品に心動かされるのか。
それが知りたくてアニメを観ています。
一行でも自分なりの解釈が書ければ本望です。




この作品の感想記事ですが複数に分けて投稿します。アメブロの文字数制限により投稿エラーになる場合があるためです。

 

投稿タイミングが遅い理由

鉄は熱いうちに打つべからず

テレビ放送から結構日数が経っているのですが、私は一週間遅れの「ニコニコ動画」でも視聴しており、そちらの配信が終わってからじっくり書こうと思っていたので投稿が遅くなりました。(これを書いているときにはもう『ひぐらしのなく頃に 卒』が始まっていました)

上記に加えてもう一つ理由があります。寧ろこちらの理由のほうが重要。

何故タイムリーに感想を投稿しないのか。それはとあるシーンを目にした瞬間や視聴直後の感覚だけでは正確に作品のメッセージを掴めず、誤った印象を抱く恐れがあるからです。

つまり「視聴中や視聴直後の感性はアテにならない」ということ。

それを常識や前提としています。これは己の体験と、いわゆる自称「ヲタク」達のアニメ視聴に対するリアクションを長い間眺めてきた末の結論。

当時は徹底的に貶された作品が10年後に「そんなに悪かったか?」「結構良い作品だったかも」と評価が一変したり、これは酷いストーリーだったなと思った作品が意外にもセールスを伸ばしていたり、演出もストーリーも素晴らしいのに「お色気」が無いせいか、ディスクの売上がサッパリだったり、といったことがよくあります。

放送中から放送直後にかけてSNSで盛り上がっているからといって、魅力的な作品とも限りません。行列のできるお店に相応の価値があるか否かは、実のところ行列に並んでもわからないものなのです。

私は作品を何度か観直します。ここ1~2ヶ月で言えば『アイドルマスター XENOGLOSSIA』『終末なにしてますか? 忙しいですか? 救ってもらっていいですか?』『さばげぶっ!』『ソードアート・オンライン アリシゼーション』『最近、妹のようすがちょっとおかしいんだが』『ガンダムNT』『黒執事 Book of Circus』『そにアニ』『AKIRA』『パパのいうことを聞きなさい! 』『蒼き鋼のアルペジオ』『キルミーベイベー』『Steins;Gate』シリーズ『ご注文はうさぎですか? BLOOM』『劇場版 AIR』『ダ・カーポ』『のんのんびより のんすとっぷ』『氷菓』他。そして『美少女戦士セーラームーン』を初視聴。

何度か観直すと様々な発見があるものです。演出の意図に3回目の視聴で漸く気付くこともありますし、好きなキャラクターが5回目の視聴で変わることもあります。作品に対する印象がひっくり返ることもしばしば。

初視聴直後の「熱」で作品に触れると、あらぬ形に変わってしまう恐れがあることを身に沁みて感じているのです。

 

コモンセンスを履き違えた自称「ヲタク」達

私が数年前にアニメ視聴に関し「切る」と表現することを批判したのは、時を経て評価が反転したり、瞬間的なノリだけで居丈高にジャッジしてみせたり、作品全体の魅力とセールスは必ずしも比例しないという不可思議な事象を肌で感じていたからでしょう。現在は明確なロジックがあって批判しています。

歴史を見ても、大衆の気分が正しい価値観や方向性を示すとは限らないのは明らかであり、私が生きている時代でも「みんなの気分で選んだものは大いに間違いうる」ということがリアリティを持って眼前にあります。

デモクラシー(民衆政治)は、いとも容易くオクロクラシー(暴民政治)に堕すると自覚できないのは日本人くらいかも知れません。自称「ヲタク」は言わずもがな。気付いているはずがありません。

数年前、私に「世に放たれた作品はみんなのもの(故にみんなの示す態度は絶対的に正しい)」と反論してきた「ヲタク」気取りのオマヌケさんにこう問いたい。

「みんな」に崇高で絶対で真っ当な判断ができるなら日本は完全に自立した豊かな国であるはずなのに、真の主権もない、自国もろくに守れない、拉致被害者も取り戻せない、他国民の流入は増加、唯一の拠り所の経済もガタガタなのはどうしてですか?そんな国にしたのは紛れもなく我々「みんな」であることを自覚していますか?と。

「みんな」の実像なんてものは「砂山」程度でしかありません。風が吹けば瞬く間に飛んでまた別の場所に山を作る。本人は風に飛ばされていることすら気付かない哀れな存在。

今なら断言できます。「切る」なんて平気で言い放てる輩は「ヲタク」に成り得ていない単なる視聴者だと。何故ならば、そのオマヌケさんの考えるヲタクはコモンセンス(常識)及びモラル(道徳・倫理)がズレているからです。

ヲタクにおけるコモンセンス(常識)とは「全話で一つの作品」「自分の場当たり的な情緒と作品の善し悪しは別」といった前提意識。そういったコモンセンスが無いので「瞬間的な印象による視聴の仕分け」をすることが「ヲタクの正しい所作」「ヲタクとして当然の行動」だと誤認するのです。

モラル(道徳・倫理)とは、百歩譲って、どうしてもこれ以上観る気になれないなら、せめて「リアタイア」「断念」などの言葉を選ぶこと。やたら「神回」「神作」「覇権」などと連呼したかと思えば、別の対象には「クソ」だの「切った」だのと吐き捨てる。モラルがあればそんな極端な表現や下品な言葉を気軽に選ぶはずがありません。

映画『点と線』では、あさましく勘ぐりを入れる女中の態度からコモンセンスの無さを嘆くシーンがあります。「神経がまともじゃない」「賄賂とかリベートとか顔を利かすとか口を利いてやるとか、悪いことが常識化しているんですな」「全くです。まともに暮らしていると腹の立つことばっかりだ」。といった具合に。

 

『氷菓』の「評価」

『氷菓』で「名作論争」が出てきます。




「多くのフルイにかけられて残ったものが名作」か「最初から名作として生まれてくる」か。私はどちらにも賛成しません。フルイの作り(コモンセンスとモラル)が悪ければ、純度と質が高いものでも小さ過ぎて落とされ、単に大きなものだけが残る。他方、自分だけのフルイもあるので残るものが各々違う。つまりは自分なりの名作がある。

重要なのは「ヲタクとして当然の行動」とされている「瞬間的な印象による視聴の仕分け」を疑い、自分なりのコモンセンスとモラルを構築することではないでしょうか。

作品の感想に入る前に長々と書いてしまいました。しかし『NOMAD メガロボクス2』はコモンセンスとモラルという視点でも解くことができるので前振りとして書いておきます。

 

息苦しいほど痛く切ない良作

ここからが『NOMAD メガロボクス2』の感想です。

非常に素晴らしい作品でした。故に何としても感想を記事にしておきたかったので時間を作り執筆。久し振りの投稿に至ったわけです。

深夜アニメの主流は異世界モノや異能モノ、あるいは可愛い女の子に囲まれる主人公や、なぜか女性しか登場せずキャッキャウフフし続ける日常ストーリー。前期なら女の子が主体となってキャンプを楽しむ作品『ゆるキャン△』がありましたね。

この『NOMAD メガロボクス2』はそれらとは一線を画す作品と言えるでしょう。

画面いっぱいに充満する男臭さ泥臭さ。バーボンやテキーラのような強い酒を飲みながら観たくなる作品であり、実際私はウイスキーを飲みながら視聴したことがあります。前作同様、ニコニコ動画での配信は視聴者が少なくひっそりとしているので、あたかもバーに集い語らい合うイメージでした。

男臭さと泥臭さは前作よりも増し、OPとEDと劇伴の渋さも相まって哀愁までも抱き込んでいます。「染みる」とこはこのことで、味わい深さは圧倒的に今作の方が上ではないでしょうか。

転生したらスライムだった云々、究極進化したフルダイブRPGが現実より云々のように、タイトルでセコい自分語りをされたところでそんなもん知るかよとしか思えなくなってしまった中、『NOMAD』というタイトルは一般名詞であるが故に、誰が遊牧民・放浪者なのかを最終話視聴後も考えさせられます。

各話のタイトルも示唆的。




主題はメガロボクス競技で勝つことではありません。今作のジョーは殆ど正式な試合をせず、チーフのセコンドをしたり、リュウのスパーリングパートナーをしたり、ひたすらジム兼住まいの修繕ばかりしていることからもそれが伺えるのではないでしょうか。




ジョーとして試合に出るのはたった二回で何れも敗北。今作におけるジョーの試合の目的は凡そ勝利でも強さの証明でもありません。これまでもこれからも戦うのは自分のためとジョーは言いますが、言外で読み取れるのは利己的な動機は無いということ。




命をどう使うのか、誰のために使うのか、何のために使うのか、それらを息苦しくなるほど痛く切なくこの作品は問いかけてきます。

 

異文化共生という夢物語

この作品は未来の話でありながら、紛れもなく近現代の世界情勢を色濃く反映しています。移民、新技術、自然災害、戦争。これらはコモンセンスとモラルを揺るがし、混乱と摩擦と危機を呼び込みます。

舞台は前作と同じく日本と思しき国。紙幣は日本風。




ただ、自衛隊ではなく軍であったり、移民流入による諍いや作品全体にスペイン語を散りばめているところを見ると、モデルはアメリカとメキシコの国境あたりでしょう。




移民は少なくとも14ヶ国が失敗しています。習俗も規範も金銭感覚も違う人間が共に暮す。これが非常に困難なのは明白。だから「国境」を隔てて棲み分けているのです。

アメリカはレーガン大統領時代の雑な移民政策が「遅効性の毒」となって国内を蝕んでいます。『WHO ARE WE?(邦題:分断されるアメリカ)』でサミュエル・ハンティントンが危惧した通りに。

アニメの世界は『超時空要塞マクロス』の時代から「異文化共生」が当たり前。中には馴染めない人間も出てきますがそれでも異文化共生は進みます。マックスと異星人ミリアの間に子供まで出来てしまうくらいですから。




『僕らはみんな河合荘』も異文化あるいは多文化共生をひとつ屋根の下で描き出した作品と言えます。しかし、そういったものはやはり「夢物語」でしかありません。

この作品において、移民は互いを不幸にすると示唆している。それは紛れもない「リアル」なのです。

移民の問題をどこかの遠い場所の出来事のように感じている日本人が多いかも知れませんが、すぐそこに迫っている「リアル」がこの作品から読み取れます。

 

テクノロジーに飲まれない者達

『メガロボクス』という作品全体から伝わってくるのは「新技術との距離の測り方」です。

前作では、権利はおろか名前すら持たない未認可地区のアウトローのろくでなしがメガロボクスの頂点を目指すことが一応の主軸でした。

勇利と戦いたいというジョーのケモノじみた願望と南部の借金返済という目的を同時に満たす背景はあるものの、とりあえず勝ち進むことが重要だったわけです。その中で、ボクサーが装着する「ギア」に対する様々な捉え方が出てきます。

ギアを軍人の肉体サポートとして売り込もうと考えているゆき子。そのデモンストレーションを請負いボクサーとしての高みを求め続けたい勇利。人間の能力を凌駕するギアで己の理念の正当性を誇示したい樹生。ギアを宛てにできず端から関心が薄いジョー。

結果的にギアを手放しで礼賛する主要人物は誰もいませんでした。メガロボクスギア開発の牽引者であるゆき子でさえ事業から手を引きます。今作でもゆき子は、佐久間が発明した脊髄損傷でも手足を自由に動かせる「BES」に対し疑問を抱きます。




それは「BES」の被験者マックと夫への「BES」の埋め込みを承諾をした妻マヤも同様。




最後までテクノロジーに露ほどの疑念も抱かず礼賛していたのは佐久間のみです。




つまりこれは「新しさ」や「テクノロジー」への懐疑であり作中における大きなポイントだと私は考えます。

 

シュペングラーの予言と西部邁の忠言

『西洋の没落』という「予言書」でオズヴァルト・シュペングラーはテクノロジーが全面に出てくると「文化」は「秋」に入り「文明」になり没落の「冬」を迎えると著し、約100年後の現在、その予言はほぼ当たりました。

「テクノロジーの発展=近代化=文明=秋冬=没落」というのが要点。

西部邁氏が「テクノロジーはそもそも危険であり安全なものなんて無いという前提で議論すべき」と再三語っていたのは「予言書」にあるこの要点を踏まえてのことと思われます。

当然ながら、この作品の世界も完全に没落前の衰退期に入っています。現在よりテクノロジーが進んだ世界なのに豊かそうに見えないのは、まさに「テクノロジーの発展=秋冬」と言えるでしょう。

近年、一瞬で簡単に文字やスタンプが送受信できる「LINE」のようなツールに多くの人が安易に飛びついたあたり、現実の日本にもいよいよ本格的な秋が到来しそうです。いや、没落に差し掛かった西洋の真似をして近代化をしたのだからもう冬かも知れません。

やはりこの作品の世界と現実は繋がっているのではないでしょうか。

別に「LINE」の全否定をしようというわけではありません。LINEは近年の象徴的な風潮として採り上げたに過ぎず、あのようなツールは我々が生まれる前から続く没落の兆しの一端でしかないというのが私の見方です。

没落の兆しは明治からありました。福沢諭吉の『民情一新』はテクノロジーへの懐疑を以て急速な近代化に対する警鐘を鳴らしたと言えますし、福田恆存は明治以降の「立身出世」を是とする教育がバカを増やしたと述べています。

上記のことを思い浮かべると『GHOST IN THE SHELL』や『AKIRA』の世界はおろか、『Just Because!』の世界にすら住みたくなくなります。

『Just Because!』は魅力的な青春恋愛作品ですが、頻繁に「LINE」でのやり取りが出てきます。その様子がとても気持ち悪く見え「こんなツールでのやり取りが常識化した世界から抜けられないのは哀れで貧しいな」とさえ思いました。




『ゆるキャン△』にも似た印象を持っています。

当然『メガロボクス』の世界にも憧れません。私が生きてみたいのは『ARIA』『ご注文はうさぎですか?』『翠星のガルガンティア』の世界。

それは母星の街並みを再現した1年が24ヶ月のゆっくり季節が巡る世界、自転車すら殆ど出てこない木組みの家が並ぶ世界、文明が完全に崩壊した遥か後の船上の世界。要は固定された世界に逃げ込みたいわけです。




肥大を止められなくなった鉄雄を、バラバラにされたはずのアキラ君が連れ去さらなけらばならないなんて悲しいですし、フローターが無ければ水面に浮かぶことすら出来ない身体で夜の海に潜り、電脳化された「アタマ」で己の魂の在り処を探す草薙素子にもやるせなくなります。




素子はトグサをスカウトした理由を「ほとんど生身だから」と答え、「同じ規格品で構成されたシステム(公安9課メンバー)はどこかで致命的な欠陥を持つことになる」「特殊化の果てにあるのは緩やかな死」と結んでいます。特殊化の果てとは全てをテクノロジーに委ねることと同義であり、それに対する懐疑や恐ろしさはS.A.C.シリーズでも描かれています。




テクノロジーを安易に扱ったせいで岡部倫太郎は何度も大切な人の死を見届ける苦しみを味わいました。



 

バイクはバカにしか乗れん!

世の中は否応無しに新技術に波に飲まれる。その波は悲劇となって人を押し流す。その波にかろうじて流されずにいられる方法は前述した「懐疑」。そして人間は不完全であるというコモンセンス。

一方で、新技術とは人間の不完全さを補うためにあるというコモンセンスもあります。新技術と人間の関わりは常に矛盾の円運動であり、そこから逃れられません。そして人間がテクノロジーに勝つことはほぼ不可能。

新技術の恐ろしいところは、矛盾の円運動を見失いどこにいるかわからなくなることです。テクノロジーが急速に発展するとどうなるでしょう。円運動が速くなり人間の目では追えなくなる。コモンセンスを見失い判断とモラルを見誤るのは必然なのです。

「マックタイムは僕でも予想しなかった」佐久間はこう言った後に「BESが実用化すればこの先数え切れない程の命を救うことが出来る」と続けますが、「マックタイム」という人間の意志を置き去りにしたバイオレンスを予想出来ない時点で、テクノロジーが人間を「ノックアウト」していると悟らなければなりませんし、命を救う目的とは背反すると見通さなければなりません。ところが、佐久間にそんな見通しはできない。円運動で目が回り、コモンセンスが狂ってしまっているからです。

 




ロスコの開発チーム主任の吉村も佐久間の元でBESに関わるうちに一時見失ってしまいました。しかし「間違いに気付いた時、立ち止まることも未来への確かな一歩なんじゃないのか」と樹生に言われたことをきっかけに、コモンセンスを見直しました。




新技術と人間の関わりは常に矛盾の円運動と前述しましたが、それを端的に表したセリフがあります。

「バイクはバカにしか乗れん!」




『ばくおん!!』の天野恩紗が主人公佐倉羽音に言ったセリフで「お前はバカだからバイクに乗る資格がある!」と続くのですが、このバカは恩紗自身へも向けられているのです。

 




「バイクは危険だ。でも乗らずにはいられない。なんて私はバカなんだ」というコモンセンスとモラルを持っている。これこそ人が忘れてはならない感性だと思います。

『キラッとプリ☆チャン』の桃山みらいちゃんみたいに「やってみなくちゃわからない。わからなかったらやってみよう」と明るく前向きに言うのも良いですが、現実の世界ではもう少し慎重であって欲しいものです。




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