【感想】「疲れてしまうな」『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝』 | pure fabrication -ANIMATION BLOG-

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人は何故、映像作品に心動かされるのか。
それが知りたくてアニメを観ています。
一行でも自分なりの解釈が書ければ本望です。

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久しぶりに今期観たアニメの感想でも書いてみます。
作品名は『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝』。
第13話で前半部分終了みたいなので感想を書くには良いタイミングかと。

しかし、わざわざ感想を記事にしようというのに
「疲れてしまうな」程度しか出てきません。

アニメ作品というパッケージとして観て楽しくない。
それが率直な感想です。

私はもうアニメに付いて行けないのだろうと思いました。
他に頭を使いたい時期だったので集中できませんでしたというのが正確なのですが
なら記事にするなよと叱られそうなのでちょっと頑張って書いてみます。

では、疲れてしまう理由を考えてみることにしましょう。
理由は三つありました。

 

 

 

 

 

 

理由1.負がストーリーを牽引している


この作品は主人公いろはの妹探しで動き始めますが
いろはは疑問を余儀なくされ「追い続ける」ことになります。

その疑問は不安や寂しさや悲しさを伴っており
「負い続ける」という言い方もできる程、まとわり付いて離れません。

 

 

 

 

 

 

 




 


他の登場人物も喜怒哀楽の「楽」が少なく負の側面が強い。
「ウワサ」に惹きつけられる人たちにも「楽」がさほど感じられません。

悪意や欲といった「負」が主たる駆動力として
ストーリーを牽引するので、その勢いに疲れてしまいます。

まどマギシリーズはそんなものだろと言われればそれまでですが
「負」に頼り過ぎている気がしました。

 

 

 

 





 

 

 

 

 

 







 

 

 

 

 

 

 

 

理由2.毒か薬かシャフトメソッド


ついて行けない理由の二つ目。
「シャフト作品」であるということです。

「疲れてしまうな」。
いつからか、シャフトが手掛けた作品を観るごとに
そんな意識を持ってしまうようになりました。

例えば、映像の流れを阻むように象徴化した絵を割り込ませてくる。
とにかくカット割りが多くて忙しない。

画面の方々に撒き散らされた文字やモチーフに
なにかヒントや意味があるのではないかと目を凝らして観るのも辛い。

やたら整然とした無機質な構造物があったり
取って付けたようなコラージュで埋め尽くされていたりするのも
時代や状況の感覚を狂わされているようで混乱する。

 

 

 

 

 

 











 

 

 

 

 

 












 

 

 

 

 

 

 

 










 


向かい合って話す二人がいたとして、その二人を横から捉えるのではなく
台詞の度にそれぞれを真正面から捉える演出も目には厳しい。

私はそれらを勝手にシャフトメソッドと呼んでいます。
メソッドと言えば法曹教育における「ソクラティック・メソッド」や
音楽教育における「バークリー・メソッド」などあります。

ただ、それと同じような概念でシャフトメソッドを用いていません。
分類整理体系化していない単なるイメージと捉えてください。

向かい合わせの切り返し(クロスカット)は
小津映画風だなと好意的に考えることもできますが
「見ろ!注目しろ !暗喩が込められているかも知れないぞ!」と
押し付けられている感じがして、最後には疲れてしまう。

シャフトメソッドはずっと刺激物入りの料理を食べさせられている苦しさがあります。
鶴乃の中華料理を食べたいろはの心情がわかる気がしました。
私にとって毒のようなもの。

 

 

 

 

 

 





 


逆に、刺激物入りの苦しさが深夜アニメを本格的に観始めた人には
うってつけの薬になると考えます。

特に若い人は早いうちに
『メカクシティアクターズ』と『電波女と青春男』の視聴体験を薦めます。

『メカクシティアクターズ』を観てウンウン考えるもよし
『電波女と青春男』の甘酸っぱさに浸るもよし。

あと『桜Trick』はシャフトではありませんが
シャフトにいた人が風味付けをしている程度なので
優しく味わえるという面では良い作品です。

私はもう『アホガール』と『学園ハンサム』で
アニメは十分だという認識を強くしました。

 

 

 

 

 

 

 

理由3.ゲームを下敷きにしている


この作品はゲームを下敷きにしています。

私はマギアレコードをプレイをしたことがないので
いくら『魔法少女まどか☆マギカ』という「アニメ」を元にしていても
どうしても理解が追いつかないところが出てきてしまいます。

勿論、ゲームを下敷きにしているアニメ全てに対し
理解が追いつかないわけではありません。
ゲームが原作のアニメは数多くあります。

例えば一連の『Key』作品。
『ドラゴンクエスト』や『ポケモン』も元はゲーム。
上記ゲームのアニメ化は成功していると思います。

『ウィクロス』シリーズも同様。
先述した『学園ハンサム』も会心の出来。

とりわけ『アイドルマスター』シリーズはゲームを下敷きにしながらも
かなり上手にアニメ化しているのではないでしょうか。

『アイドルマスター』シリーズはアイドルアニメ作品としても
ずば抜けて良く出来ています。

一方『フォトカノ』や『艦これ』や『アズールレーン』は
ゲームの縛りをかなり受けていると感じました。
全体的にかなり不自然で駄作と言われても仕方ありません。

ただし私は『フォトカノ』が好きで、この作品のおかげで
監督とシリーズ構成を担った横山彰利氏も好きになりました。

『アイドルマスター』第18話は
他の話数とかなり毛色が違って好きだなと思っていたら
絵コンテと演出が横山彰利氏でした。

初めて観たときはクレジットをまともに確認していなかったので
横山彰利氏と気付きませんでしたが私は元から彼のセンスが好きなのでしょう。

また『外伝』に位置する他作品
『SAOAGGO』や『ソード・オラトリア』を観ても
理解が追いつかないということはありません。




話をマギアレコードに戻します。
ゲームを下敷きにしているので、どこかに赴き誰かと出会い何かが起こります。
つまりはイベントなのですが、一様に「含み」があるので
「流れ」がせき止められ気持ち良さを損なってしまいます。

「説明回」はあったものの「魔女」と「ドッペル」の違いや
それらにソウルジェムとグリーフシードがどう影響するのかも
今ひとつ掴めないまま視聴を終えました。

集中していなかったという落ち度は認めます。
しかし、この感じは『STEINS;GATE』を観たときとも違う。

『STEINS;GATE』は「含み」があったとしても
気持ち良さを損なうことがありませんでした。
やはりシャフトメソッドが関わっているかも知れません。

マギアレコードのゲームをプレイしている人にとってはその「含み」が
高質な作画と相まって大きな感動を呼ぶと考えられるためなんとも悲しい心境です。
こんなことを書いていると主人公の悲しさが移ってしまいました。

 

 

 

 

 

 

 





 

 

 

 

 

 




 

 

 

 

 

 

 

 

魔法少女は効率化の果てにあるマシン


まどマギシリーズ内の問題はエネルギーあるいは成果物に関することであって
魔法少女は生産性を飛躍的に効率化させるマシンとして描かれています。

勿論、魔法少女は人間なので
いくら願いを叶えてくれるというスペシャルボーナスがあっても
自分がマシン扱いされていることに気付いたとき
エネルギーや成果物を搾り取られてポイされてたまるかと考えるのは当然。

インキュベーターは多分に「唯物論」や「功利主義」の臭いを漂わせていて
その先には「新自由主義」が待っている。
労働を「人材」や「リソース」と呼んだりする現代企業の有り様に似ています。

カール・ポランニーは「労働(人)」とは土地や貨幣と同じく動かせないものであり
「モノ」のように扱うことを批判していました。
私もポランニーの主張に賛成する一人です。

しかし今、日本に蔓延しているのは、
動かせるものとしての「人材」や「リソース」という用語。

これは働く人を移動可能な「材」や「資源」や「マシン」といった概念で捉え
「モノ」のように扱うということに他なりません。

「人材」が足りないなら外国から調達すればOKみたいな発想は
まさに「人のモノ化」であって「マシン的扱い」とも言えます。
かつてあった奴隷制度にも通じているのではないでしょうか。

余談ですが私は所謂「ビジネス用語」が大嫌いで
やれ「なんたらサイクルを回せ」だの「ゾーニングを考えろ」だの
「ターゲッティングがうんたらかんたら」だの「スキームがどうのこうの」だの。
アホかと呆れることがあります。

魔法少女は功利主義の犠牲者であり「マギウスの翼」はそれに抗う組織。
だからと言って「マギウスの翼」が善意の組織とは思えません。

灯花は希望や絶望が都合の良い「リソース」として搾取されるのを許せるのか
私達は誰かのための「商品」じゃないと言っています。

ところが灯花の発想の根と辿るとこれもまた「唯物論的且つ功利主義的」なのです。
マミを効率的に「モノ」として利用する気満々でしたから。

詐欺師キュゥべえに利用されるか、詐欺団マギウスの翼に利用されるか
そんなところでしょう。

 

 

 

 

 

 


 


この作品には「善」や「良」がなかなか見当たらず
それを探すにはちょっと苦労します。

また折角の「善」や「良」をAIに担わせるというのも印象的で
まどマギシリーズもついにマシンが人間を救いに導くのか
そんなに人間を悪者にしなくてもと寂しくなってしまいました。

とは言え私は今の人間、とりわけ日本人をあまり信じていません。
付け加えるなら、日本人は民度が高いと言われますが、全くそう思いません。

 

 

 

 





 

 

 

 

 

 

主人公としてのいろは


いろはは普通の変身だけでは活躍できるシーンが多くありません。
その面を見れば凡そ主人公らしくない印象を受けました。
『CHAOS;HEAD』の主人公と重なります。

ただ、相対的に戦闘力が低く剥き出しの感情も少ないのは
作品内では個性として目立っています。
その点において彼女は主人公であると言えるでしょう。

弱くて感情をあまり剥き出しにしないというのは没個性になりがちですが
この作品では寧ろ没個性だからこそ主人公になりえる。

 

 

 

 

 

 






 


いろはは「慈」を垣間見せるところがあり
私はそこに作品の価値を見出しています。

 

 

 

 




 

 

 

 

 

 

骨を埋めてあげましょう


後編がまだなので結論を述べるのは早計ですが一応書いておきます。

これを手掛けた人達はエヴァンゲリオンとハルヒをしゃぶり尽くして
骨になってもなお手放さないつもりかと。

思わせぶりな演出を散りばめるのも「ヒト」が破壊神や創造主に成り代わり
世界をひっかき回すのもそろそろ控えて貰いたい。

いきなり世の中を弄くられ、その度に右往左往させられる不特定多数の人は
たまったものではありません。

まどマギはあの12話が全てで良いではありませんか。
エヴァとハルヒの骨を丁寧に拾って、もう土に埋めて差し上げてはどうかと思います。