私はどうやら、2023年にはnoteにアカウントを二つ作ったらしい。
一つはスガシカオの曲に出てくる男性で好きなタイプランキングを作った記事を書いて、そのまま放置。
もう一つは、「一人になりたい」とかいう感じの記事から始まり、読書記録を書いて行こうとしたところ、何かめちゃくちゃ優秀そうな若い人から、一緒に読書頑張りましょう、応援しています的なコメントをいただき、そのまま放置。
とまぁ、このアメブロのブログも「一人になりたい」的な記事から始まる訳で、私はたぶん、ネットという広大な世界で一人になりたいのだと思う。
何でこのアメブロが続いているかと言うと、まず、夫との詳細な性描写が気持ち悪くてまともな人がある一定の距離を置いてくれるというのが一点。
次に、私自身の性格に難があることを包み隠さず記しているからというのが一点。
最後に、他人に言えない恋愛カテゴリーなのに不倫している描写は妄想レベルで、カテゴリー違いで反感を買いやすく、やはり夫との性描写、夫との会話、夫の欠点に対する辛辣な物言いなどを描写している割には、夫の息子氏に対する異常なこだわりが気味が悪いと思われているというのが一点。
以上、三点により、安易に話しかけて来る人がいないというのが、私がブログを続けられている理由だと思う。
私は私に同意したり、同調したり、応援したりして来る人が嫌いなのだと思う。
赤の他人、ネットの匿名の何かに同意、同調、応援された分、それを返さなければならない気がして、その直接的な互恵をもたらしたくなる心理システムを悪用されている気がして気分が著しく悪くなってしまう。
いや、そもそも現実世界においてもそんな関係は好きではない。私の絵を覗き込んで褒めて来る先生をウザいと思っていた。たぶん、教室の運営の邪魔にならないように、私を懐柔して子供らしくさせ、他の子どもの不安材料にならないようにという目的を達成するために、大して上手くもない絵を褒めていたのだ。
おそらく宇野常寛もそういうのが嫌いなんだろうなと思いながら、今日も彼の本を読んだ。
宇野常寛の本には繰り返し、ネットで自分が気持ち悪い、喋り方がキモいなどとディスられていることが描写されているが、案外、そういうポジションにいる事を居心地が良いと思っている、或いは、ネットでディスられているということ自体が捏造なのかもしれないと思った。
宇野さん、素晴らしい、稀有な才能!なんて応援してくれる人ばかり、というか太鼓持ち、一人では何も生み出さない迷える子羊ばかりになると、分配の義務が生じて独りになれないから、たぶん、宇野常寛的には楽しくないのだと思う。知らんけど。
私もこれからは応援の手を差し伸べられたら、その手を捻り上げて、一人を貫いていきたいと思う。
というかnoteって投稿日時を過去にできないの?不便すぎない?早いインターネットじゃない?
20250325 一般公開