7月の終わりの「恋のアバンチュール!」と叫びたくなるような猛暑の中、僕はH市の中心街のとある交差点で信号待ちをしていた。
太陽の未必の殺意すら感じる激烈な日射しと、陽炎すら浮かぶ強烈なアスファルトの照り返しに、僕の身体と心は激しく溶かされていた。
そして、ここはホーロー製の蒸し器の中なのかと疑いたくなるような高温の湿気が、再び僕を即座に半熟程度に固形化していた。
そんな瞬時の状態変化を繰り返しながら、僕は僕という存在を保っているようであった。
僕のいる交差点は実家から徒歩5分ほどのところにあり、H市の歓楽街に向かうのには必ず通る場所だ。
この交差点を物心ついた頃から数えきれないほど通過してきた。それはある意味、社会参画へのイニシエーションであったのかもしれない。
今、僕がいる方にはちょっと大人なお店や台湾料理屋が入ったビルがある。
昔はこのビルにケンタッキーが入っており、幼少時は母と立ち寄りチキンを買って、手をつないで今日はご馳走だとスキップしながら家路についたものだ。
一方、信号を渡った先には某S銀行の支店がある。この支店は明治期の白亜の洋館を思わせる外観、H市の歴史と文化を匂わせる数少ない建造物だ。
「この交差点から見える景色はずっと変わらないなあ。」
と少し感慨にふけっていたその時、信号のその先の白亜の洋館の前を、淑やかに歩く一人の女性に僕の視線は釘付けとなった。
この溶けるような猛暑の中、あえてシックかつフォーマルめな紺色のワンピースに身を包み、日傘を控えめにさしながら歩くその姿はまさに「おしとやか」という形容詞そのものを体現しているようであった。
僕は今までここまで気品に溢れる女性を見たことがなかった。体中に電撃が走るとともに、暑さによる自らの幻覚を疑った。また白亜の洋館が彼女とシンクロして、妙な非現実感が僕を包みこんだ。
信号はまだ赤のままだ。このままでは彼女はS銀行の支店前を通り過ぎ、どんどん遠くへ行ってしまう。もう二度と彼女を見ることができないのではという一抹の哀しさが頭をよぎった。
信号待ちの時間をこんなにも長く感じたことはなかった。自然と僕は歩道と車道の境界ギリギリでクラウチングスタートの構えをしていた。
ついに、信号が青になった。もう僕には目の前の信号が、F1のスタートシグナルにしか見えていなかった。
どうやら彼女はまだそこまで遠くへ行っていないようだ。微かにではあるが、まだ彼女の輪郭を朧気に捉えることができる。
僕は交差点を遮二無二に桐生以上ボルト未満の脚力で走り出した。
すると、走り出したはずの僕の身体が急にカタンと静止した。ただ、それは走るのがとまっただけで、身体は動き、意識は明瞭であった。
そして、車道を走る車、歩道を歩く人々、空中を瞬く雀、全ての動きが停止するのが分かった。
そこで僕は何となく判ってしまった。
「今、世界全体が停止しているんだ、あの彼女と僕を除いては。」と。
すると、遠くへ行ったはずの彼女が、天上界から降りてきたかぐや姫のごとく神々しく僕に近づいてくる。
僕は事態がよく飲み込めない混乱と彼女が近づいてくる緊張で完全にドギマギmaxに陥っていた。
ついに彼女が僕の目の前に現れた。
僕の世界に初めて彼女の気品溢れる全身が明瞭に投影された。
身長は僕より少し低いくらいで、すらっとして触れたら壊れる繊細な陶器のようなその身体。
それにしても、なんと美しい顔立ちなのだろうか。
二重でくっきりとしながらも主張しすぎない、今にも吸い込まれそうな潤んだ瞳。そこに乗る繊細な宝飾のような長くて豊かな睫毛。
まるでルネサンス期の彫刻品を思わせるスッと通った鼻筋。適度な艶美さを感じさせる薄めの唇。
この世の合理性を全て凝縮したかのようなその御顔に僕はそれ以上の比喩を失い、呆然と立ち尽くしていた。
すると彼女は人間の鼓膜に対して最適な周波数を思わせるげにも美しく妖艶なその声で
「今、そなたはわらわに見惚れておったな。 さらば、そなたの願いを1つ叶えてしんぜよう。」
と呟いた。
僕はその声に極上のオーケストラを聴くかのこどく聴き惚れながらも、なんで見惚れたから願いを叶えてくれるんだ?という論理の不可思議と、そもそもの彼女の文語調に猛烈に突っ込みを入れたくなっていた。
しかし、そこは空気を読んで少し緊張で震えた声でこう答えた。
「特にないですね。。。」
嘘でも何でもなく、その時の僕には本当に願いが何もなかったのだ。
僕が煩悩にかられた俗な人間なら、彼女とのお付き合い、強いては巨万の富や地位や名誉を望んだだろう。
しかし、僕は生きたいと特に望んでいなければ特に死にたいとも望んでいなかった。
金銭欲があるようで特にはない。
性欲があるようで特にはない。
物欲があるようで特にはない。
名誉欲があるようで特にはない。
食欲があるようで特にはない。
彼女に触れたいようで特に触れたくもない。
彼女は僕の回答を聞き、まるで未確認生物を発見したかのような奇怪な目で僕をなぞり、少し上ずった声でこう尋ねた。
「それはまことか? 世の中の民は欲で溢れていると聞きたまふぞ。本当によひのか? 最悪、わらわはそなたの妃になってやってもよひと言っておるのじゃぞ。」
この彼女の一言に一つの望みが僕の中に新春の新芽のようにひょこっと芽生えた。
「では、あなたの容姿を永遠にそのままに保持して下さい。僕はあなたの美を永遠に感じられればそれだけで良いのです。」
この僕の切なる願いを聞いて、彼女は一瞬美しい眉間に微かな皺を寄せた後、無重力を思わせるような軽やかな声でこう答えた。
「申し訳ないのじゃが、それだけはどうしても叶えられぬ願いじゃ。世の中に永遠の美だけは存在しえぬのでな。」