江戸の後期、嘉永の頃、達吉は神田末広町で呉服屋を営んでいた。
達吉の呉服屋は江戸の中では中規模程度の大きさであったが、素材の良い生地に斬新な刺繍をあしらった呉服を扱い、江戸の通な町人の間では知らぬ者がいないほどに繁盛していた。
呉服への刺繍のデザインは全て達吉が一人で考案したものであった。それは古典的な日本の美の中に、現代アートに通ずる抽象性を孕んだ独創的なもので、主に日本の山河や神々、龍などを描いたものであった。
事実、達吉は美術に造詣が深く、北斎、広重の浮世絵を多数集め、また歌舞伎座に毎日のように観劇に行くほどであった。
そんな彼にとって呉服における刺繍は自己の美の感性の表現の場であり、まさに耽美そのものであった。
また、彼の美的感覚に大きな影響を与えたものが、吉原の遊女であるお了との出会いであった。
お了は、達吉が成人した頃あたりからたびたび通っていた遊郭の新入りの遊女であった。
その遊女は越前の国の出であり、雪国の者特有のきめ細やかな白く繊細な肌をしており、外見こそ派手さはないが、穏やかな静の中に何か人を酔わす妖艶さを備えている女であった。
達吉はお了に酔心し、毎日のように彼女のもとに通うようになった。
お了の部屋は6畳程度の吉原の遊女としては質素なものであったが、そこには彼女の越前の田舎を思わせる風景や女性の姿を描いた水墨画が3,4枚ほど壁に飾られていた。
「お了、この水墨画はどこかで頂いたものなのかい?」
「いえ、わたしが描いたものです。お粗末なものですが、少しはこの寂しい部屋を飾りつけれたらと思って、ここに来てから自分で描いてみたのです。」
「本当かい? 素人が書いたにしては随分と味があるねえ。お国では画でも習っていたのかい?」
「いいえ、習ってはおりません。ただ、田舎の祖父が画を描くのが好きで、私も祖父の描くのをを見よう見まねで、時折、家の周りの風景などを描いておりました。私はこの部屋に始終閉じこもっておりますから、せめて画でだけでも故郷の景色や家族の姿を見たくて描いて貼ってみたのです。」
達吉はお了の描いた水墨画をじっくりと観賞した。確かに、その絵はタッチや構図に多少の荒さがあったのものの、それを補ってあまりある彼女の繊細な感性で捉えられた壮大な山々、田畑の風景は、強烈な現実感と少しの幻想をもって達吉を感性の岸壁に追い込んだ。まさに、画の向こうに彼女が見て育った越前の国の故郷の景色そのものが、屹立と存在するような感覚に襲われた。
「お了、君の描く画は素晴らしい。これは君の世界そのものだ。ぜひ、これからも描き続けてくれ。」
それからと言うもの、お了は毎日のように故郷の画を描き、達吉がそれを観賞する日々が続いた。
お了の画に刺激され、達吉の着物への刺繍のデザインはリアリスティックな日本の美を感じさせる物へと変化していった。そのデザインは以前に増して好評をはくし、結果、達吉の呉服屋は大盛況となり、彼自身多忙を極めることとなった。
そして、お了のもとへ通う足も次第に遠のいて行ってしまった。
しばらくの月日が経ち、呉服屋の仕事も落ち着き始めた達吉は久方ぶりにお了に会いたくなり、吉原へと足を向けた。
はやる気持ちを抑えながら、吉原大門の木製のアーチをくぐり歩を進めると、何やら多くの者たちが門に向かって大声を出しながら急いで引き返してくる。
「火事だ、見返り柳付近の店から火が出たぞ。他の店に燃え移るかもしれないから逃げた方がいい。」
達吉の傍を小走りで通り過ぎた町人の声が耳に届いた。
見返り柳付近の店と言ったら、お了のいるところだ。達吉は強烈な焦りと不安に襲われながら、大門へと引き返す人々を必死に掻き分けてお了のもとへと急いだ。
息を切らし、店の付近まで来てみると、そこは多くの野次馬で埋め尽くされていた。そして、お了のいた店は大火に包まれていた。
それは今そこにある全てのものを一瞬で残酷に、そして華やかに滅する魔術のような火炎であった。
達吉は一瞬、その火炎の現象としての美に圧倒され立ち尽くした。しかし、すぐに正気を取り戻し、火事の前に群がる野次馬たちを掻き分け、お了の店の近くまで寄ることができた。
すると、彼の右の方から聞き慣れた声が聞こえた。
「達さん、来てくれたんですか! どうやら店の料理場から火が出たようで、気づいたときには火が回っておりました。私はたまたま所要で外に出ておりまして、戻ってきたときにはこのようなひどい火事で・・・」
お了は涙がかった声で達吉に必死に事情を説明していた。達吉はお了が無事であること、そしてその恐怖に震えながらも柔らかな声を聞くことができ、心から安堵した。それと同時に一つの不可思議な想いが生じた。
「お了、そうすると君の描いた画は部屋の中に置いたままなのか?」
「はい、外から戻ってきたときにはこの火でしたので・・・・」
すると、その返事を聞いた達吉はおもむろに着物を脱いでお了に渡し、炎に包まれる店へと向かい出していた。
「達さん、なりませんぬ。この火事の中、店へ行ったら命は助かりません。何より私の落書きのような画になど何の価値もありません。焼けてしまってかまわぬものです。どうかお戻り下さい。」
すると、達吉は彼特有の誠実さ、厳しさ、そして優しさの溢れた目で振り返り、
「君の画は私にとって世界そのものなのだ。そして、世界が滅するところを私は黙って指をくわえて見過ごすことはできないのだ。許しておくれ。」
そう言って、彼は壮烈な火炎に包まれる建物に人々の制止を振り切り、勇猛果敢に飛び込んで行った。
その後、達吉の消息を知る者は無い。