以下は末日聖徒イエス・キリスト教会が公式文書で引用している本から要約したものです。

本の名は「聖なる寂しさの中で」(In Sacred Loneliness)で、著者は現役モルモン信者です。

ジョセフ・スミスの34人の妻たちの人生について、当時書かれた手紙や日記を紹介しながらまとめた本です。

信者の方も安心してお読みください。

【生い立ち】
1821年1月31日、父ウィリアム・ハンティントンと、母ジーナ・ベイカーの間に
10人兄弟の8番目として生まれる。
裕福で大きな農場で仲の良い家族の中で育った。平和な子供時代を過ごした。

ルンルン音楽好きな家族でオーケストラギターをした。父がバス・ビオール、母がチェロ、息子ウィリアムがコルネット、ディミックがドラムを担当。
【モルモン教への改宗】

14歳の時、ハイラム・スミスからバプテスマを受けた。

「ハイラム兄弟が祈っている、ある男性が水の中に入り、誰かにバプテスマを施している、天からの示現を見ました。

それで、バプテスマを受ける時だと感じました」とジーナは語っている。

【異言を語る賜物】
エライザ・スノーとエリザベス・ホイットニーと並んで、ジーナも異言を語るので有名だった。

【カートランドでの暮らしと銀行の倒産】
予言者ジョセフ・スミスが訪れて、すぐに土地を売ってカートランドへ来るように勧告した。

そこでジーナの家族は住み慣れた土地を売り、カートランドで新しい家と土地を買って住始めた。
●ジーナはカートランド神殿の聖歌隊に加わった。神殿で、彼女は天使たちが歌っているのを聞いたという。
●母ジーナは貧しい人々に施しをして回った。娘のジーナもこれについていった。
●父ウィリアムはカートランドの「アンチ銀行」にほとんどの財産を投資していた。

しかし、この銀行がつぶれ、自分の土地を失くしてしまった。
父ウィリアムは労働者として働くしかなかった。

家族はほとんど食べるものがない状態だった。

これについて弟のオリバーは皮肉を込めてこう書き残している。
 「銀行が倒産して僕らは無一文になった、他のモルモンと同じように。いずれは貧乏になるだろうとは予測していた。

だが、こんなにあっけなくそうなるとは!」

 

【カートランドを追い出される】
●ジーナが17歳の時、1838年5月21日、家族はカートランドからミズーリへと旅立った。

この旅も、ユタへの旅ほど良く知られてはいないが、厳しいものだった。
ところがミズーリに住み始めてすぐ、反モルモンの攻撃を受けた。

兄のディミックや弟のオリバーはダナイトという、ジョセフが結成した警備隊の一員として働いた。
しかし、彼らは1年もしないうちにミズーリを追い出された。
【ヘンリーとの出会い】
●家族の多くがひどい病気にかかり、母親のジーナが死んで、家族はジョセフの家で世話をしてもらうこととなった。
ここでジーナは初めの夫となる、ヘンリーと会うことになった。ヘンリーはバイオリンを弾くのがうまかった。
●父ウィリアムはリディア・パートリッジ(エドワード・パートリッジの未亡人)と再婚した。
●ジーナとヘンリー・ジェイコブスが交際している時、ジョセフ・スミスがジーナにプロポーズした。

しかし、ジーナはこれを拒否したが、日記にこう書いている。
 「おお、神様、私に知恵を下さい!主よ、正しい道を教えて下さい。あなたのみ旨が行われますように。

知性をもって私たちを照らして下さい。」
【ヘンリーとの結婚と予言者ジョセフからの執拗な求婚】
●1841年の初め、ジーナはヘンリーと結婚することに決めた。
●ヘンリーとジーナは婚約し、ジョセフ・スミスに式を挙げてくれ、と頼んだ。
 ジョセフはその役を引き受けた。
●1841年3月7日、しかし、ジョセフは当日ドタキャンした。
 ヘンリーとジーナはノーブーの市長、ジョン・C・ベネットに結婚式を執り行うように頼むしかなかった。
●2人は後にジョセフ・スミスに会った時、「なぜ結婚式を挙げるのをドタキャンしたの?」と聞いたら

ジョセフは、「主がジーナは私の永遠の妻になることになっている、と言ったから」と答えた。
記録によると、ヘンリーはこれを受け入れたが、ジーナは非常に苦しんだという。

当時のモラルは非常に高く、女性は夫婦の絆を大変清らかなものとして尊重していたからである。

多妻婚だけでもおぞましいのに、多夫婚など、とても受け入れられるものではなかった。
●1841年10月、悩み続けたジーナに、決断の時が来た。
ジーナの兄のディミックが、ジョセフ・スミスからのメッセージをジーナに伝えた。

内容は以下の通りだった。
 「さやから抜いた剣を持った天使が現れて、『もし一夫多妻をやらなければお前は今の地位どころか命も失うぞ!』と言ったのです。」
 自分がジョセフと結婚しないと彼は予言者の地位を失い、殺されると思ったジーナは結婚をする決意をする。
【予言者ジョセフとの結婚と苦悩】
●1841年10月27日、ジーナはジョセフと結婚した。

この時、ジーナはヘンリーの子供を身ごもっていた。妊娠7か月だった。
兄のディミックが式を執り行い、その妻のファニーが証人だった。

これはジーナを通して兄ディミックと父ウィリアムをジョセフに結び付けるものだったと思われる。
この結婚を決意するにあたって、ジーナは次のように書いている。
「私は神が多妻婚の法律をこの教会の中につくられたという証を得たの。
私は自分の命を捧げるよりも大きな犠牲を払った。

もう二度と、敬意の目で私の愛する人たちから見られることはないでしょう。」
●ヘンリーはジーナとジョセフの結婚を受け入れた。
後に、ジーナは
 「私はジェイコブ氏と結婚したが、幸せな結婚ではなかった。だから私たちは離婚した。」
と書いている。
これを読む限り、次の順番でことが起きたように聞こえる。
ジェイコブスとの結婚ーー不幸せな結婚ーー離婚ーージョセフとの結婚
しかし、ジョセフが、人妻となったジーナにプロポーズした時は、まだ、ジーナとヘンリーは新婚だったのだから、不幸せになる時間はあまりなかったと思われる。それに、二人はその後も一緒に住み続けるのだから、このジーナの言葉は、彼女がジョセフとの結婚を説明する際に、同時に二人の男性と結婚していた事実から言い逃れをする為に後に書かれた歴史の「書き換え」であったと思われる。
実際、二人の結婚は、ジョセフが生きている間に離婚するに至るほど不幸なものではなく、ジョセフの死後何年も二人は一緒であった。
【次々と伝道へと召されるヘンリー】
●ジーナとヘンリーが結婚している間、ジョセフはジーナと肉体的関係を持ったか?
ジョセフは他の妻たちと関係を持ったのだから、ジーナとも寝た、と思われる。
ヘンリーは次々と伝道へ行かされて家にいないことが多かったし。
●ジーナはこう書き残している。
「それは誰かに話すにはあまりにも神聖で、私にとっては生きるか死ぬかの問題だったのです。

何年もの間、安どの息を吸うことが出来なかったくらいでした。」
●1842年1月2日、長男ゼブルンが誕生。後に大きくなったゼブルンはこう書いている。
ある時、父がコートを買って来たが、大きすぎた。母がこれを切って父にぴったり合う様に作り替えた。

父は次の日曜日、それはそれは誇らしげにそのコートを着て行った。
●ヘンリーもジーナと同じで、異言を語る賜物に恵まれていた。
●1842年1月17日、ヘンリーはシカゴへ短い伝道へ行った。

息子ゼブルンが生まれて1週間後のことだった。
●1843年、ヘンリーは2,3か月の伝道へ。

同僚だったジョン・D・リーによると、ヘンリーはジーナのことを自慢にしていた。

「ほとんど崇拝していた」とリーは書いている。
●1843年5月、ヘンリーはニューヨーク西部へ伝道に。10月に帰還。
●1844年4月、テネシーへ伝道に行った。

使命は ジョセフ・スミスの大統領選挙への出馬のキャンペーンの為。
【ジョセフの死とブリガム・ヤングとの結婚】
●1844年6月27日、ジョセフ死亡。
ブリガムはジョセフから、もし自分が死んだら彼の妻たちを頼む、と言われていた。

ブリガムはジョセフの妻たちのうち、9人と結婚した。

●ジョセフと結婚した既婚者妻たちは、彼の死後、元の夫たちと住み続けながらも今度はブリガムやヒーバー、他の12使徒たちと結婚した。とことが、ジーナの場合、この法則が破られた。
夫ヘンリーは忠実なモルモンだった。よって、彼はは神殿でジョセフの代理人としてこの世でジーナと結び固めを受けることが出来たはずであった。
記録によると、こうだ。
「ヤング会長がジーナに言った、『もし私と結婚したら、もっと高い栄光に入ることが出来る』と。」
ところが、ジーナは既にジョセフ・スミスと結び固められていた。
 よって、この世でブリガムと結び固められることが彼女の永遠の救いを
 手に入れるチャンスをどうやって高めるのか?明らかにされていない。
●1844年9月、ジーナはブリガム・ヤングとこの世の結婚の結び固めを受けた。
ヘンリーはこの事実を知っていた。しかし、ジーナはヘンリーと夫婦として住み続けた。

恐らく、二人は一生このままともに連れ添って生きていくと思っていただろう。
【ジーナとヘンリーのほほえましい結婚生活】
●ヘンリーは土地を買い、家を建てた。
●1845年1月19日、ヘンリーは七十人の会長会の一人に召された。
 ジーナは妻として誇らしげにこう書いている。
  「ヘンリーは会長会の中で一番若いのよ」
●二日後、ヘンリーは短い伝道へ行った。
●1845年2月6日、ヘンリー家へ戻った。ジーナは
「ヘンリーは伝道で成功を収めた」と書いている。またまた、誇らしげに。
●1845年2月11日、ヘンリーは又伝道へ。3月1日に帰ってきた。
●1845年3月7日、ジーナとヘンリーは4回目の結婚記念日を祝った。
●5月5日、ジーナはヘンリーの誕生日を日記に書いた。彼女は親しい家族のメンバーの誕生日を日記に書いていた。
●この後、ジーナはヘンリーが何かの問題を抱えていて、それをとても心配していると日記に書いている。
 「問題を抱えているヘンリーを慰めて下さい、彼は一言も不平をもらしていないのですから」
●1845年6月11日、ヘンリーはブリガムに呼ばれて勧告を受けた。

彼が何か反抗的な態度を示したからなのかはわからない。
●この頃、ジーナの日記には、病気のエライザ・スノー・ヤングを見舞ったことや、パティ・セッションズ・スミスと葬式へ行ったことが書いてある。こうして、ジョセフの妻たちはこれから後、共に助け合っていくのである。
●1846年1月3日、ヘンリーとジーナは、新しく完成した神殿で、共にエンダウメントを受けた。
●1846年2月2日、ジーナは、神殿で、ジョセフ・スミスと永遠の結び固めの結婚を、

ブリガム・ヤングとはこの世での結び固めの結婚をした。出席者は7人。
この時、ジーナ25歳、ヘンリーの2番目の子供を妊娠していた。
【ユタへの旅の最中、ヘンリーは宣教師としてイギリスへ】
●ヘンリーとジーナは息子ゼブルンを連れて旅に出た。

雨がよく振って、道はぬかるみ、幌馬車ははまってしまい、ひどい旅だった。
 アイオワ横断の途中で雨の降りしきる中、ジーナは息子を産み、

ヘンリーが赤ちゃんを取り上げた。
 2代目ヘンリーの誕生だった。ブリガムはそこにいなかった。
●こんな大変な時にヘンリーは伝道に召された。ヘンリー自身もひどい病気だった!
 どこへ?イギリスへ!
●ピスガ山での出来事を息子ゼブルンがこう書いている。
 「ヨーロッパへの伝道へ行く時、父はあまりにもひどい病気で毛布にくるまれて幌馬車にかつぎこまれなければならないほどだった。

でも、父は完全な信仰を持って一生懸命頑張った」
●1846年6月25日、ヘンリーはノーブーからジーナへ最初の手紙を書いた。
  「君のことをよく夢に見るよ。会いたくてたまらないよ、息子たちにも。

シルクのハンカチを贈るよ。この手紙を受け取ったら、すぐに返事を送ってほしい」
●1846年7月11日、ニューヨークでヘンリーはジーナの弟オリバーと会った、オリバーの親せきの家で。

オリバーはこう書いている。
エルシー姉妹とヘンリーはここで深く愛し合い、ヘンリーが伝道から戻り次第、結婚し、一緒に西へ行く約束をした。

でも実際ヘンリーが戻ったら、エルシー姉妹は婚約を解消した。
ヘンリーがジーナへ書いた愛情のこもった手紙を読んだ後でこの婚約話はショッキングに聞こえる。
ヘンリーとエルシーの婚約については、2つの可能性がある。
 ①ヘンリーは本当に婚約した。ブリガムヤングがそうしろ、と勧めたのなら説明がつく。
ジーナはあの世ではジョセフ・スミスの妻になるので、今のところ、ヘンリーには永遠のパートナーがいないのだ。

伝道中に多妻婚に踏み切り、ヘンリーにとって永遠のパートナーを見つけるようにとブリガムが指示したのかもしれない。
そうでなければジーナの弟のオリバーは、ヘンリーに対してすごく怒ったはずだ。
②どうもこの婚約話は、疑問が残る。このヘンリーの婚約の話は、オリバーによる、歴史の「書き換え」ではないか? と思わずにはいられない。姉のジーナとブリガムの結婚を正当化する為にオリバーが書いたものかもしれない。
この物語は起こった当時に書かれたものというよりは、過去を顧みている項目の中に入っているからだ。
ジーナはヘンリーが伝道中に送ってきた全ての手紙を丁寧にとっておいた。
●1846年8月19日 
 ニューヨークブルックリンにいるヘンリーの、ジーナへの手紙。
   「親愛なる同僚へ
    僕が荒れ野に置いてきた、大切な家族、ちゃんと食べているかい?
    とても心配だ。 ジーナ、君のことを忘れてなんかいないよ。
    君への愛は変わらない、もっと大きくなっているよ、これからも、もっとず    っと強くなると願っている、
    永遠の世界までも、終わることなく。
    ブリガム兄弟とその家族によろしく言っておくれ。
    ・・・君を愛する真の夫、ヘンリー・B・ジェイコブスより」
●ジーナはその頃、父親を病気で亡くした。彼女はワンルームの丸太小屋に息子2人と住んでいたが、ホームレスを7人家に泊めてあげていた。
【ブリガム・ヤングはヘンリー不在中にジーナを自分の妻とする】
●その後、大変な思いをして旅をして、ウィンタークォーターにたどり着いた。

ここで、何とジーナはブリガムの妻として公に生活し始めた。

しかし、ブリガムもジーナも、自分たちが一緒に住み始めたことをヘンリーに何も伝えていなかったのである。
●ほっ建て小屋に住んだが、ジーナは多くの友達と交流出来て楽しいと書いている。

ブリガムがみんなにとても優しくて、それは神が彼を教えているからこそなのだろう

大きな多妻婚の家族でも幸せになれる、と、多妻婚が神の教えだと証している。
●1847年1月14日、ヘンリーはジーナに手紙を書いた。
  「子供たちにキスして、僕のことを話してあげて。手紙でゼブルンのことを教えて。」
●2月14日、バレンタインの日にも手紙を書いている。
 「生きていようが、死んでいようが、この世だけ又は永遠にわたっても、ジーナ、僕の君への思いは永遠に変わらない」
 「君が将来他の人のものとなっても、僕は誰をも責めないよ。
  ブリガム兄弟に対して怒ってなんかいないよ。ジョセフの日の栄の法律にのっとって、全てが正しいのだから。」
 「でも僕は寂しい、自分のものだと言えるものが何もない。母親のいない子羊になった気持ちだ。」
「ジーナ、大変だろうけど、神を愛する者には必ず良いことが起こるよ、君と子供たちをどんなに愛しているか、とても言葉では言い表せないよ!」
●1847年6月20日、ジーナは弟オリバーの妻でニューヨークに住んでいたメリー・ニール・ハンティントンに手紙を書いた。

そこには、ジーナはブリガムとすんでいて、もうヘンリーの妻ではないと書かれていた。
【ヘンリー、伝道から帰還し、自分がジーナから離婚されたと知る】
●1847年7月、ヘンリーとオリバーはイギリスを離れ、8月12日にニューヨークに到着、オリバーとその妻メリーの所にも滞在した。
 ここでメリーがジーナからきた手紙をヘンリーとオリバーに読んだ。
 (ジーナはヘンリーと離婚した、という内容の手紙を)
●ヘンリーもオリバーもびっくり!ヘンリーはうつ状態になり、どうすることも出来なかった。
●この時、オリバーがジーナに書いた手紙をジーナはとっておいた。
 「姉さんが7月20日にメリーに書いた手紙の内容を聞いたよ。大丈夫、ヘンリーは
わかった、僕はかまわない、と言ってるよ。だけど、彼は独りぼっちだ。
僕はヘンリーから、彼が感じたこと、彼の苦しみを全て聞かされて、まるで僕も彼が姉さんのことで受けたと同じ試練を受けたかのように感じるよ。
もし姉さんが僕がどんなに苦しんだかわかったら、僕をかわいそうだと思うだろうに!」
こうなる前までは、ヘンリーはジーナとブリガムの結婚は儀式だけのものと解釈していたのだろう。ここでようやくヘンリーは、ジーナに離婚されたことに気づいたのだろう。
●1848年の5月、ジーナはウィンタークォーターズからユタへの旅に出た。

ブリガムはジーナの弟オリバーに、ジーナの面倒を見るようにと頼んだ。

この様に、夫は不在、助けてくれるのは兄弟と親せき、というのが多妻婚の現実だった。

オリバーは書いている、バッファローやプレーリードッグを見たとか、一緒に旅していた夫婦がおおげんかしてののしり合っていたとか。

 

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