【夫ブリガムが常に不在の寂しい生活】
●ジーナの兄のディミックがジーナとプレセンディア(ジーナの姉)の為に家を建て、ジーナは学校の先生をして働いた。
●ブリガムとは一緒に住んでいない、招待された時だけ、彼の家に行くのだった。
 家のことは全部兄や弟に頼っていた。
●1849年の日記でジーナはブリガムが出来るだけ、彼女を支えようとしてくれていてとても優しい人だ、と言っているが、実際には、経済的に兄や親せきに頼り、自分でも一生懸命働かなければならなかった。
●彼女は決してブリガムを批判してはいないが、日記を読むと経済的にかなり困難を極めていたことがわかる。
●ある時、ブリガムとの会話のすぐ後で彼女は、寂しくて仕方がなくてすすり泣いたと書いている。
●ジーナは本当にブリガムに忠実だったが、彼女は彼のお気に入りの妻ではなかった。実際、エメリンという妻はブリガムとの間に10人もの子供を産んでいる。
●エライザ・スノー、パティ・セッション、ルイーザ・ビーマンと仲が良かった。
みんなジョセフ・スミスの妻であって、よく集まってブレッシング・ミーティングを行っていた。
●よく、友達と集まってパーティーをした。そこでは、神聖なダンスや異言によるコーラスが行われた。
●1850年ジーナは8か月の妊娠の時、日記に「昼も夜も、何時間にもわたる私の痛ましい寂しさを理解出来る人はいないでしょう」と書いている。
 優しいブリガム、でも辛い時に一緒にいてくれないブリガム

 

【代理妻としての低い地位に耐える】
●ジーナは一度、トハリエットという女性と住んでいた。ハリエットもブリガムの妻でトラブルメーカーだった。ブリガムの娘のスサが次のように書いている。
 「ある時、ハリエットがジーナおばさんに、『あんたなんか、どうせただの代理妻(proxy wife)のくせに!ブリガムはあんたのことなんか愛してないのよ。あんたを愛してくれる人なんて、一人もいないわ』と言った。ジーナおばさんはこう言ったの。
『あなたを愛してるわ、ハリエット姉妹』」
この記述から、正規の妻でない女性たちは、家族内で低い地位にいたものとうかがえる。
1850年4月3日、ジーナはブリガムの娘を出産、ジーナ・プレセンディアと名付けた

【元夫ヘンリーの誕生日を日記に書き続ける】

●1854年、ジーナは日記に
今日はヘンリー・B・ジェイコブスのお誕生日。彼は38歳になった。誕生日ケーキ
と書いている。彼女は愛する家族や仲の良い友達の誕生日を日記に書いていた。 
ブリガムと結婚した後も、何年にもわたって日記にヘンリーの誕生日を記していた。
●ジーナの子孫たちは多くがヘンリーに対して同情的である。
 

【多妻婚妻たちの苦悩】

●1856年2月6日、ジーナは親せきの一人とパーティーへ行った。
 そこで、夫のブリガムが他の妻たちと一緒にいるのを目撃する。ハートのバルーン
●「スーザンがほとんど1日私と過ごした。彼女の夫が妹のイレクタと前日に結婚したから。彼女にとっては試練の時。」と書いている。
●1856年9月31日、ライオン・ハウスに引っ越した。家しし座
ライオンハウスとは、ブリガムが自分の妻たちの為に、集団生活の実験として建てたもので、ジーナは3階の西側の部屋をあてがわれた。ここで娘のジーナと息子のヘンリーを育てた。ゼブルンは奉公に出ていた。
●ブリガムの妻の一人、クラリッサが死んで、その子供4人を育てるようにとブリガムから頼まれ、引き受ける。立ち上がる歩く歩くハイハイ
 

【目まぐるしく活躍するジーナ】
●ジーナは、ブリガムの要求に応じて助産婦の勉強をし、産科の学校を教えた。

又、看護婦の学校も創立した。デゼレト病院が建った後、病院1880年に病院長となった。

●1869年、ジーナはブリガムのペット・プロジェクトのカイコを育てた。カイコの幼虫が大嫌いだったが、この仕事を引き受けた。「ジーナおばさんは何か月もの間、カイコの幼虫の悪夢にうなされた」と、スサ・ゲイツは書いている。
●ノーブーで始まった扶助協会は、エマ・スミスが一夫多妻に反対した為、一度は閉鎖された。が、1866年、扶助協会は再度結成された。エライザ・R・スノーが最初の会長で、ジーナは副会長として仕えた。
●ジーナの娘のジーナは結婚してカナダカナダへ行った。母ジーナはいつも、いつも、寂しいショボーンと、娘への手紙に書いていた。夫はほとんど一緒にいなかったから。
●1877年8月29日 ブリガム死亡。十字架
●その後、いつも助けてくれた兄のディミックも死亡。しかし、死ぬ前に、彼は霊の世界を訪れたという。彼はそこで、知り合いに会った。母のジーナ・ベイカーとも会った。みんな忙しくて幸せそうだった。信仰を持ち続けて神権のある者たちは、悪霊を負かす力があったという。

 

【多妻婚をかばうことで、国際的な女性解放運動の会でスピーチすることを拒否される】
●1869年 ニューヨーク ワールド という雑誌のインタビューでジーナはこう言っている。
ーー良く出来た多妻婚の妻というものは、自分の夫に対して無関心でなければなりま  せん。
  深い尊敬の念以外、どんな気持ちも抱いてはいけないのです。愛とは、間違った  感情です。多妻婚において、愛という感情は存在してはならないものですーー

●1878年11月16日、反多妻婚の改革運動に対して、ジーナはジョセフと自分の結婚についてみんなの前で証した。それが扶助教会リーダーの義務だったから。
●フェミニスト運動の集まりに呼ばれたりもした。これはモルモン主催ではない。
●バッファローで開催された 婦人の会議(WOMENS CONGRESS)で
ユタの女性の代表としてスピーチを頼まれたが、多妻婚の妻であるとわかり、スピーチをさせてもらえなかった。
●ニューヨークのNWSA会議〈全国婦人参政権協会National Woman Suffrage Association〉でも話すことを拒否された。
 

【扶助協会の会長として】
●1888年、66歳で3代目扶助協会の会長となる。(ウィルフォード・ウッドラフに召された)

●多くの神殿をまわり、儀式を執り行った。エライザが生きていた頃からこれは行われていた。
●この様に華々しく活躍するジーナだったが、娘のジーナに書く手紙には、寂しいといつも漏らしていた。エメリン・ウェルズはこう書いている。
 「ジーナおばさんはいつもと同じで孤独だった」

●1896年、大管長ウッドラフ、ジョセフ・F・スミス、フランクリン・D・リチャードが来て、
 扶助協会を民間企業(private corporation)として組織しようと言い出した。
 これにジーナは反対したが、彼女の意見は無視され、結局、男性陣の望んだようになった。エメリンはこう書いている。
「ジーナおばさんはこれについて非常に心配した。扶助協会の霊的さが取り去られ、この世的なものになってしまうのではないか、と恐れたから。」
●1896年5月23日、ジーナは娘のジーナにこう手紙を書いている。ラブレターラブレター
 「全てが寂しく、静かなの、私の黒いショールの様に。」
●1896年8月、息子ベブルンへの手紙にはこうある。
「ジーナと子供たちに会いたくて、死にそうよ!いなくなるとどんどん寂しさが増してくるの。でも、我慢しなくちゃね。」
●1901年8月28日、ジーナ死亡。皮肉なことに、ヘンリー・ジェイコブスの家族の一画に埋葬された。

ヘンリーの墓からさほど遠くない所に。
●死んだジーナが娘のジーナに2回現れて、ヘンリーの家族の為に系図を調べるようにと言った。
●ヘンリーとは別れたのに、なぜかいつもヘンリーとつながっていたジーナ。

 

●以下はジーナの子孫であるという人物がネットに載せているもので、その一部を日本語に訳したものです。

A MORMON FAILURE SUNDAY, OCTOBER 18, 2009 Lessons from Zina Huntington
(ジーナ・ハンティントンから学ぶ 2009年10月18日)
ジーナ・ハンティントンは私の ひおばあさんであるリディア・パートリッジの義理の娘です。
リディアはエドワード・パートリッジの妻です。リディアとエドワードの娘、エミリーは私のおばあさんです。ジーナとエミリーはどちらもジョセフ・スミスの妻となりました。
興味深いことに、ジョセフはジーナをヘンリーと住み続けさせました。

しかし、ヘンリーの子供たちは天国ではジョセフのものになります。

彼がどんなに育て、世話をしても、いずれは自分の子供たちをジョセフに捧げなければならないのです。
それだけではなく、ジョセフの死後、ブリガムがやってきて、ジーナを代理妻としました。これをヘンリーを伝道に召した時に行いました。そしてヘンリーがいない間にブリガムはジーナにプロポーズし、結婚しました。
後に、ブリガム・ヤングはヘンリーをディスフェローシップしました。ヘンリーがジーナをとられた後に他の妻をめとったからです。もちろん、ブリガムこそがジーナを奪った張本人です。
歴史的記録によると、ブリガムがジーナを取り去ってしまったという理由があったから、ヘンリーは破門されずに済んだというのです。

ヘンリーは後に破門されます。
 なぜ私がこれについて述べるのか?自分のモルモン人生の過去で起きたあまりにも多くの事実への反響に共感しているだけなんだ。
ヘンリーは教会とリーダーたちにに全てを取り上げられた。2人の男がジーナと結婚するのに立ち合い(彼のジーナへの愛情と彼女を自分のものだと主張することは無意味であった)、悪意に満ちた理由とみられるひどい扱いを受けても、それに耐えた。
一生涯、愛するジーナを失った悲しみをたくさんの手紙に託した。今でもそれらの手紙は残っているんだ。私はそれを読んだ。心が張り裂けそうになる。同じ夫、父親としてこれらの手紙を読んで具合が悪くなった。恋しがる気持ち、悲しみ、当惑、空っぽな心が、これでもか、と手紙に詰まっている。同情してやまない。

ヘンリーの教会への忠誠心は実に、驚くべきものだった。リーダーたちの良いところを見ようと努力していた。彼らにひどい状況に立たされたにも関わらず、である。
常にジーナと子供たちを気に欠けていた。
しかし、全てが彼から取り上げられるのだ。彼の心からの努力と正しいことをしたいという気持ちは、教会の要求を止めることは出来なかった。
この教会、彼が全力を傾けて働いたその教会が彼から無残にもすべてを取り上げた。
更にひといことに、ジョセフ・スミスは多夫婚を禁止する法律を教義と聖約の132章の中に書いているのだ。こんなにわけのわからない混乱と災難を耐えろ、と言われて耐えられるものか?!
皮肉なことに、このめちゃくちゃな状況の下で、ヘンリーとジーナはただ、正しいことをしようと務めただけなのだ。二人とも、正義と悪を見抜こうとした。だが、それでどうなった?悲惨だ。ここで巻き込まれた人たちが、ただただ、正しいことを行いたいという純粋に思っただけなんだ。それにも関わらず、大きな不幸と不必要な苦痛心の張り裂けるまでの悲しみがもたらされた。このことに私はがくぜんとした。
それが私を謙遜にする。
誰かが何かを正しいと信じてそれに自分自信を捧げたからと言って、それが幸せをもたらすとは限らないのだ。
以下のジーナの言葉を読んで考えていただきたい。彼女は多妻婚における夫婦の愛について、次のように語っている。

ーー良く出来た多妻婚の妻というものは、自分の夫に対して無関心でなければなりま  せん。
  深い尊敬の念以外、どんな気持ちも抱いてはいけないのです。愛とは、間違った  感情です。多妻婚において、愛という感情は存在してはならないものですーー

(1869年 「ニューヨーク ワールド」の記事に載ったジーナの言葉)
一体どういう環境が、彼女にこんなことを恥ずかしげもなく言わせる原因となったのか?このような言葉を発するように教会はどんな手を使って彼女を説得させたのか?
このような言葉を発するようになるまでに、彼女がどれだけのことを耐え抜き、精神的なトラウマにあってきたか、想像を絶する。
私はこのような考え方を抱く女性を哀れに思う。
これは間違っている。多妻婚、19世紀に行われた多妻婚は家族の在り方を侮辱するものだ。どんな女性もこんなにひどい人生をおくる必要はない。
私の宗教がどれだけ人を駆り立て、彼らがもっと幸せな人生をおくれるはずなのに、そうではい、と、信じ込ませてきた事実に恐ろしさを感じる。
私は自分の宗教が怖い。