「神を信じているのですか?」に対する答え | Spiritual Dreaming ★ スピリチュアル ドリーミング

「神を信じているのですか?」に対する答え

「神を信じているのですか?」「何かの信仰を持たれているのですか?」

 

私は瞑想講座や癒しのセッションを行う時や絵画展を開いている時によくこんな質問を受ける時があります。瞑想講座で神の話しをすることはないですが、そう聞いて来る人はたぶん「瞑想」を宗教的なまたはインド哲学的な修行のように捉えているのでしょう。

 

でも、「神を信じているのですか?」と聞かれれば、それは瞑想や癒しのセッションとは関係なく真実を答えるしかありません。私は神を信じていますが、仏教徒でもキリスト教徒でもイスラム教徒でもありません。仏教の言葉やキリスト教の言葉を使うことはあっても、それは文化人類学的な参考として使っているのであって、その宗教の信者だからではありません。あえて言えば、私は奇跡のコースの信者です。そして思考は科学的であろうとしています。「神」というのは、私がまだ触れることができない領域の話しです。

 

なので、ここでハッキリ「神」について答えておこうと思います。

 

(Q)あなたは神を信じているのですか?

 

(A)はい。それは神のためではなく、なんらかの宗教のためでもなく、自分のために信じています。実在しているかどうかというのは、あまり重要ではありません。自分を超えた大いなる何かとどのような関係を持ちたいのかということが信仰だと考えているからです。

 

それでも誰かと神について話しをする時は、その人の話す神にはどのような定義があるのかを注意深く聴きます。定義がズレていればどんなに話しをしようとしても噛み合いません。話しが噛み合わなければ、相手の伝えたいことを聴くことも、自分が伝えたいことを伝えることもできません。感情が伴うデリケートなテーマを話題にするなら、話が噛み合うかどうかということはとても大切な課題です。噛み合うことなく主張すれば、会話ではなく攻撃になってしまいます。

 

神というのは倫理観や文化や観念など、その人のとてもデリケートな部分に触れる話題ですので、とりわけ注意しなければなりません。そして多くの場合、人は神そのものについては話していません。ある人にとっては宗教として、ある人にとっては科学的な証明について、ある人にとっては数学の正しさについて、ある人については文学におけるシンボルとして、ある人にとってはその人個人の信仰心について、ある人にとっては社会心理として、ある人にとっては文化的な要素として、ある人にとっては倫理観として「神」という言葉を持ち出しているにすぎません。なので、神そのものよりも、そこに絡んでくるテーマについて議論したい人が多いのです。

 

神そのものは話すことはできません。信仰しているからといって何らかの宗教の信者ではないですし、信者であっても悪いわけではないですが、多くの人は宗教と神を同一視して話しをしてしまいます。それは違います。なぜなら、宗教は組織化するために人間が作ったもので、神は人間が作ってはいないからです。

 

また、人の神に対する間違いは、神を人が作った言語体系で、人が頭で理解できるような理論体系で説明しようとしていることです。神は理解できるものではありません。それは神が禁止しているということではなく、それが不可能だからです。神を扱う時には「無知の知」が大切なのです。

 

深瀬 啓介