先回は本論から少しずれたかもしれませんが、
最後に、「神の存在」について自分がどう考えるか書いておきたいと思います。
すでに書いた経験を通じて、私は、「神などいない」という確信を持つようになり、その確信は現在のところ変わりません。
【まずはエホバの証人の教える神についての考え】
自分がエホバの証人の教える神を信じない理由は非常にシンプルで、それでいて、決定的なものだと思っています。
どこかに愛情あふれる親がいて、その親の決断は論理的に常に正しいとします。
もしそうだとしたら、どのような理由があってその親が、自分の小さな子供が飢えて衰弱し、食べ物を求めるのにさらにその子に自ら苛烈な暴行を加え続け、その子が苦しみながら絶望のうちに死んでゆくような事態を引き起こすことがあるでしょうか。
しかし私は、現実にそうした子供の死が、世の中で、いくつもいくつも起きていることを見てきました。
もしも全知全能の神がいて、しかもその神が愛情あふれる神、論理的にも倫理的にも絶対に正しい神なのであれば、どのような理由があるからと言ってそのようなことを許すのでしょうか。
もしもそのような神がいるとして、どのような理由があるからと言って、
極めて悲惨な死を経験する人たち、その周りの人たちの想像を絶する苦しみや悲しみが存在するのを許すのでしょうか。
どのような理由があるからと言って、
生きたまま体を切断される死、
生きたまま焼かれて絶命する死、
凄まじい暴行やおよそ最も恐ろしい凄惨な経験を長時間味わわされた上でそのまま最終的に迎える死、
或いは感情的にも精神的にも絶望し果てて自ら選ぶ死、
そしてそれらの悲劇的な死に伴う「残された人たちの果てしない悲しみ・苦しみ」を許すのでしょうか。
そうした「圧倒的な現実」に現に直面した者にしか、なかなかわからないと思います。
そのようなことを許す理由があるはずがありません。
エホバの証人について言えば、彼らはこれらについて「答えがある」と教えます。
・エホバ神は命を持つ喜びをほかの者と分かち合いたかったので、天使たちを作り、動物を作り、人間を作ったと教えます。
・エホバ神は絶対に正しく、「神が絶対に正しいと自らの選択で選ぶものだけ」の崇拝を望んだと教えます。
・あるケルブと、それにそそのかされた天使たちとアダムとエバが、その自由意思を誤用し、自ら罪と悲しみ・苦しみを招いたと教えます。
・このようにして持ち込まれて失われた完全性と命は「誰かにより贖われないといけない」ので、イエスキリストが地上に来て、苦しみ抜いて死に、そのおかげで「イエスの血」に信仰を持つ人だけが救われることになった、と教えます。
・このようにして人類に苦しみと悲しみが入り込んだが、贖いに信仰を持つ人たちは、死んでもやがて復活し、永遠に生きられると教えます。
・これが答えだと教えます。多くの苦しみを経験した人がこの教えで慰めを得た、と教えます。
私にしてみれば、こんな教えは人を馬鹿にした全くの戯言で、一切耳を傾けるに値しないものであるとしか言いようがありません。
まず第一に、このような教えは、この宗教に所属する人の大部分が、「真の凄まじい苦しみの現実、真に凄まじい悲しみの現実」を知らないから教えることができ、信じることができる、あまりにも薄っぺらい詭弁であるとしか思えません。
世の無数の人が直面する絶望、凄まじい苦しみ・悲しみは、それと現に向かい合った人であれば、「将来復活するから」というようなあまりに浅い教えでは到底説明などつきようがないものではないかと感じます。
もちろん、自分自身がそうした経験を現に経てエホバの証人教理を信じるようになる人も相当数いるかもしれません。
確かにそれこそが「信仰の自由」です。
ただその人たちでさえも、果たして、これまで自分が指摘してきた「エホバの証人教理の決定的な間違い」「エホバの証人組織の決定的な偽善」を知ったうえでなお、純粋にこの教えを信じ続けているのでしょうか。
また、全知全能で全く正しく、愛に満ちて最初から「完全な被造物」を作れた神が、
・「真に自らの意思で崇拝するものだけを望んだ」
・「そのような選択をする機会を与えるために罪や死や悲しみや苦しみが入り込む余地も作った」
・「そのことによりこの世に無数の想像を絶する苦しみや悲しみが生じた」
・「それをなくす為に自らの一人息子が地上で凄絶な死を遂げることが必要だった」
という教えは、そもそもにおいて矛盾に満ち、論理破綻しており、マトモな人としての感覚があれば、どう考えても理解不能な論理としか言いようがありません。
こうした理由から、私は、エホバの証人が教える「エホバ神」などいないと信じています。
【ほかの宗教の教える神】
また、どのような宗教が教えるどのような神について考えても、「神などはいない」と信じています。
・ほかのキリスト教が「神」について何を教えているのか詳しくは知らないのさですが、
およそ多くのキリスト教系宗教は、だいたいが「愛があり、慈悲深い神」を教えるのではないでしょうか。
また、何か特定の宗教が教える神でなくても、多くの人は「神」といえば、創造者で愛のある存在という前提のイメージを持っているのではないでしょうか。
そうであれば、上に書いたと同様の理由で、そうした神がこの世にいるはずがないと思います。
・キリスト教以外の一神教で「絶対神」を教える巨大な宗教もありますし、そうした宗教は「情け容赦のない神」の存在を教えることもあります。
「情け容赦のない神」であれば、ある意味いるのかもしれませんが、同時にそうした宗教もまた、「神が是認する者の復活を教える宗教」であり、そうした点で同じくすでに書いた通りの理由でそうした神は自分は信じていないです。
もう少し言えば、一神教の宗教は、古くはユダヤ教から派生している場合も多く、結局のところ、「エホバの証人が教える神」と同じ理論が当てはまるように個人的には思っています。
・仏教も詳しくはありませんが、不合理で情け容赦のない現実を前に「ただ神に信仰を持ち、それにすがれば救いが得られる」という仏教の教えは「現実路線に合っている教え」であると感じます。
しかし、だからこそ、現実から逃避し人を精神的に助けるために(あるいはその精神的救いによる統率力を原動力にして広範囲に存在する様々な人たちを効果的にコントロールするために)人が考え出した「発明」・「装置」・「人為的救済手段」の1つであることが明らかでしょうし、何よりもそうした類の神や仏を信じる何らの合理的理由もないので、そうした神は信じていません。
・ヒンズー教や神道のような多神教は、そもそも信仰する対象が「神」いえるのかどうかも判断が分かれるところですが、
こうした多神教への信仰は、「自然への信仰や、或いは、自然とどう付き合うかの古代からの知恵が集約されて神話化されたもの」、或いは、「その宗教が信仰される現地で多用される薬物(ようするにマリファナとか)の影響を受けて考え出された支離滅裂な話」としか思えないものが多く、やはりそもそも信じる対象にならないです。
また、こうした多神教への分析は、私などが何かを書かなくとも、文化人類学などで議論されつくしているのではないかと思います。
(自分はそこまで入り込んで勉強したわけではありませんし、現在のところそのような勉強をする時間も意思もないので、その程度の感覚で自分の一生は終わるのだと思います。)
【結論として言いたいこと】
非常にダイレクトに、有体な言い方をしてしまえば、もしも自分が一般的な日本人として育っていたら、最初から神など信じず、神のことなど考えなかった可能性が非常に高いと思います。
そして多くの人もそうではないかと、自分は思います。
そう考えると、エホバの証人に関わった人というのは、この宗教の個々の教えの虚偽に気づき、それを全く信じていないとしても、「神がいて、神により命や秩序が発生した」という、より大きな概念が、頭と心に無意識にまだ残存しているということはないのだろうかと、よく考えます。
無意識に、まだエホバの証人の頭の支配が続いているという可能性はないのだろうかと、よく考えます。
例えば、ラテンアメリカの人は皆一様に信心深いですが、ラテン文化の典型である「キューバ」の人で神を信じる人はあまりいませんし、ほかのラテンの国と比較するとその違いは著しく顕著です。それはこの国が緩い社会主義を採用していて、国民が小さい時から、宗教を教え込まれる環境とは無縁で育つからであることは明白と思います。
東南アジアの多くの国でも、神を信じない人は多いです。仏教は生活の一部になっていますが、さりとて神を信じているかというと、神についてなど考えもしない、本気で考えることなどないという人は非常に多いです。その一方で、同じ東南アジアでもフィリピンの人たちは神についてよく言及しますが、それはこの国が東南アジアで唯一カトリックの国だからであろうと思われます。
こうしたことを考えると、人は教育や環境により、その人生観や神についての感覚を、ゆっくり時間をかけて、無意識にうちにしかし非常に強く心の中に植えこまれてゆくので、その受けた教育・環境の影響は非常に大きい反面、最初から神についての考えを「外部」から植えこまれない限りはそうそう神を意識する人は本来いないはずというのが、実際のところなのではないかと考えます。
こう書くことにより、神を信じる人の気持ちを否定する意図は毛頭ありません。
神を信じることは、それにより人に危害を加えない限り、誰でも自由なことでその気持ちは尊重されるべきであると思います。
他方で、神を信じないという考えを持つこともまた自由です。
そして何より私が気になるのは、「エホバの証人はやめたけれども、心どこかでエホバ神がいて、いつかハルマゲドンで自分が滅ぼされるのではないかという漠然とした恐れを何年も何十年も持ち続ける人がいる」という現実です。
また、「漠然と神がいて、人間社会とは別のもっと大きな価値観みたいなものがあり、さらには死んだ先にも何かあるはずというはっきりしない心の奥底の発想」が残存しているがゆえに、「今ある自分の人生の価値、意味についての鋭い認識」を欠き、「自分の力で自分の生活をコントロールし、自分の力で自分の幸せを実現してゆき、そういった形で自分の人生を生き抜く」という感覚が鈍り、エホバの証人をやめた後にも、その残存した感覚により何かを失うことがないのだろうか、という点です。
そうしたことを考えると、世の中の真のリアルな現実に目を向け、「神はいないという確信」を言い切ることには意味があるのではないかと考えています。
いずれにせよ、一番最初の話に戻るならば、
エホバの証人を抜けた後も、私には、
「どこかにキリスト教の教える神のような存在があるのかもしれないし、ないのかもしれない」
というぼんやりした考えのままでいた時期がありましたが、その後の経験を経て、「神はいるはずがない」との結論を自分で出し、
そしてその結論は、今も変わりません。
※続きを次に書きます