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GREAT WASTED

ロック野郎なネットワークエンジニアが、何故かフィリピンで恋に落ち、もの凄い勢いで結婚し、その後半年にわたるフィリピン暮らしを経て、今再び嫁を引き連れて日本の土を踏みしめながら、働いちゃったり遊んじゃったり。の巻。


二回目の結婚記念日に渋谷の駅ビルで花を買って帰る僕は、いつも通らない246沿いの坂道をてふてふと歩いた。

十二月の夜は凛と凍てついているのだけれど、絶え間なく続くオレンジ色の街灯と時折瞬くネオンに煌煌と照らし出された長い坂道を足早に上っていくと不思議と寒さは感じなかった。

南平台の交差点を渡っている途中で、プライベートでは滅多に呼ばれることのない名字で呼ばれて振り返ると、最近交際をカミングアウトした彼女とバイクに跨がった会社の同僚がサングラス越しにニヤニヤというかデレデレと笑っていながら信号待ちをしていた。

結婚記念日に花を買って帰る金髪のオッサンとバイク上で密着して笑うつがいが偶然集うなんて、横断歩道の真ん中の半径五メートルのそのエリアが多分あの夜渋谷で一番ファミリアでハートウォーミングな空間だったと思ふ。

家に帰ると毎度ながらそんなことはすっかり忘れていた嫁が突然のプレゼントに無邪気に喜んでいた。



そして今日はジュニアの一歳の誕生日。

ジョンレノンが亡くなった次の日に生まれてくるなんてなんという憎らしい演出なんだろう。

相変わらず夜泣きは激しいけど、二足歩行のアビリティは取得済み。狙った乳首には絶対に吸いつく意志の強さを持ち、得意技の笑顔はこちらの戦意を著しく低下させるチャームの属性を持つ。

最近は「アチャーチャ」という呪文を覚え、ご機嫌なときはこれを連発する。不機嫌そうな時はこちらが「アチャーチャ」の呪文を唱えると途端にご機嫌になって一緒に唱え出す。

何と言ってるつもりなのかは分からないけど彼にとって何か素晴らしい意味があるんだろう。


僕は常々愛は地球を救えないと思っているけど、十二月のこの時期は別に地球を救わなくてもいいかなとも思っている。

このあいだ、仕事で上海に行ってきました。

感想ですか?

うーん、、、以外とふつーだったな。。



党に近い人間、、というか現役の人の話も聞いたんだけど、

もうみんなこのままではダメだなんてとっくにわかっていて、

あとはどうソフトランディングするかという

そのポイントを探っているという感じで

なんかある意味痛々しかったな。



上海の中心街はもの凄い発展していて、

特に旧イギリス租借地あたりは建物もヨーロッパ風で、

観光資源としては既に東京に勝ってるんだけど、

少し郊外に出ると

ひしひしと "チャイナリスク" ってやつを感じましたね。



追いつけ追い越せで建造物とか電車とか

目立つものは軒並み近代化しているんだけど

その中身となる文化的な生活感が皆無というか、

いわゆる中流所得層の姿が見えないというか、

うっすらとしかしはっきりとなんか圧迫感があるというか、

なんか不自然感が否めないというか。。。



躍動感がないんだよね。

それがなんか薄気味悪いというか、、、

アジア特有のカオスなパワーの

カオスはあるがバワーは無い感じ?



つまり、はっきり言うと、

もう中華合衆国にしちゃえよって話。

CU の方がいいか。

もう党の威光とかひとつの中国とか

どうでもよくね?



大切なのはそこに住む人たちが

平等なチャンスの下に

切磋琢磨しながら

文化的な生活を送ることだと思うけどな。



で、日本はビビってないでもっと介入しないとダメだと思う。

オレも中国ってイメージ悪いから絶対行きたくないとか思ってたけど、

逆におれら若いやつらがガンガン乗り込んで

彼らの知らない近代的で文化的な東洋人の知恵を知らしめた方が良いと思う。



北京は来年オリンピックだけど

上海は2010年の万博に焦点を当てて開発してるらしい。



あとはあれだな。

よく言われる国家ファイアウォールはそんなに感じなかったけど

言語ファイアウォールはかなり高い壁があるね。

全然意思の疎通できねーし。

茶番かよっ!!!

まーこれで与野党伯仲になって嫁さん大喜びってことかー?

ありえんなー。

いい歳こいて、ブチキレてんじゃねーよ。

つーか、これしきでブチキレるんなら

はじめっからアタマなんか張るんじゃねーよ。みっともねーな。




政権をとる準備すらできてなかったのはお前個人じゃねーのか?




ま、給油がポシャって、背後のロックフェラー系資本に詰められたんだろうけど。

しっかし右も左も中も米もジジィはクソだな。老害だよ老害。
いや、ちょっと調べてみたら、、この石井一って人も、かなり黒い感じだな。

志っていうよりKSD?、叩けばいくらでも出るよ。

というわけで、一部で言われているように、どうやら、



次期選挙後の民・公連立を円滑に図るために

公明が既に理論武装してある政教分離に論点を持ち込み

今のうちに公の場で潔白を演出するための茶番



という線が濃いみたいですね。

ま、本気だったらこんな黒い人担当にしないでしょ、という話。

真偽は結果を見て判断しますか。



どういう形であれ、タブー化されているものが論争の舞台に上がるのは

民主主義の最低限の条件だから、いいんだけどね。

重要なのは公の舞台で論争して結論を出す事。

なんか、久々にイベントが続いてて、

二日連続で飲んだんだけど、、、






明け方、おれの顔の上を乗り越えていくジュニアの

おしっこの臭いに、、、、、







吐いた。トイレに駆け込んで吐いた。

、、何年ぶりだろ。






昨夜はコロナ4本しか飲んでないんだけどなー。

としだな。
さて、ようやく長い前置きが終わり、本題に入ります。

あ、何が本題かというと、何故にあんな国が野放しになってるのかという理由の解析。



1948年1月に独立を果たしたものの、英雄アウンサン亡き後のビルマは混乱を極める。



独立直後から、英国統治時代に優遇された少数民族カレン族が独立闘争をはじめる。

北部では、中国での内戦に破れた国民党軍の一部が居座り、それを支援するアメリカCIAが軍事物資や軍事顧問の派遣を行いサポートした。

英国統治時代には、政治的な理由から、土着の精霊信仰の少数民族の多くがキリスト教に改宗させられており、ビルマの伝統的な仏教優遇処置も彼らの反発を招く結果となった。

国民党の残党とそれを支援するCIAは、これらの少数民族の分離独立を支援する名目で、ビルマ、ラオス、タイにまたがるゴールデン・トライアングルと呼ばれる世界最大の麻薬密造地帯で武装組織による統治を行い、半独立国として活動する一方で麻薬の取引きによる利益を活動資金とした。

またそれとは別にも、共産党は早々に政権を離脱しており、各地で散発的な武力活動を続けた。



南機関の30人の志士の一人でアウンサンの片腕だったネウィンは、この混乱期に国防相として各勢力と戦い、独立政府を守り抜いた。

その過程を通してネウィンと国軍は次第に力をつけていき、1962年に軍事クーデターにより政権を握る。

ネウィンと国軍は、まず北東の麻薬地帯シャン州に展開し1950年代半ばには国民党軍の残党勢力を一掃した。



ところで、敗戦国日本にとって初めての対外拠出ODAは1954年の「日本・ビルマ平和条約及び賠償・経済協力協定」である。

日本の自由民主党が発足直前の1954年から1965年までアメリカの反共政策の一貫でCIAから支援を受けていたのは記録に残る事実であり、戦後政権は多かれ少なかれCIAの意向の元に動いていたわけだが、時系列をたどると、ネウィンがこの世界有数の麻薬地帯を制圧したあたりから日本からの巨額ODAが始まっているわけで、以降、自民党の政権が盤石になるのと歩調を合わせて力を強めていく様は、偶然と呼ぶには余りにもタイミングがよすぎる。

ネウィンが制圧した麻薬地帯からの、CIAまたはその代理勢力による物資運び出しを黙認する見返りとして、または、赤化ドミノ現象の西への広がりを食い止める緩衝帯として、仲介者としての日本からの援助をとりつけ、徐々に力をつけていったと見る方が自然だろう。



インドシナのタイより東側は、第二次世界大戦が終わるまで、日本と同盟関係にあったフランス(ヴィシー政権)の植民地となっていたが、ベトナム、ラオス、カンボジアがその後次々と内戦状態に陥っていくのと比べると、傀儡とはいえあの時期に独立国家としての機能のいくばくかを手に入れた事が、その後の大きなアドバンテージとなったのもまた動かぬ事実である。



ネウィンは武力で掌握したその政権の正当性を主張するために、故アウンサンをビルマ建国の父として神格化し、悲劇の独立の闘士として祭り上げる。

このことが、インド・イギリスで育てられ、イギリス人と結婚し、民主化を声高に叫ぶ故アウンサンの娘、アウンサン・スーチーの出現により、自らを苦しめることとなるのは20年も後のことだ。



ネウィンの軍事政権は、マルクス主義と仏教双方に影響されたビルマ式社会主義を標榜し、独自の社会主義政策をとるが、その政策は次々と失敗し、また国有企業の利益を優先したために経済は破綻の一途をたどる。

社会主義とはいえど、その成り立ちから他の共産主義国との繋がりは薄く、いわゆる"東側"諸国からの援助などは殆どなかった。

また、隣国のタイは歴史的な事情から反ビルマ意識が強く、近年になるまで援助はおろか物資の流通さえも制限されていた。

やがてアメリカが国際的な麻薬ビジネスを取り締まり始めると、ゴールデン・トライアングルに対する取り締まり対策として、僅かばかりの武器提供を受けるようになる。

日本軍の敗色が濃くなるにつれ、アウンサンらは自らと国家の行く末を模索し始める。

1943年8月に、日本軍政の傀儡とは言え全世界に独立を宣言した後、11月にはイギリス軍に信書を送り寝返りを打診している。

時期的な事も含めて考えると、国家独立にかけたその思いと、独立が紙の上だけのもので実際には何一つ変わらなかった事への落胆がその行為に走らせたことは、想像に難くない。



1944年8月の独立一周年式典で、この独立はまやかしだと発言した後、超党派からなる抗日組織 Anti-Fascist People's Freedom League (AFPFL) を水面下で結成し、密かに勢力を拡大していく。

1945年3月に、北部でビルマ国軍の一部が日本軍に対して反乱を起こすと、これを制圧する名目で首都ラングーンに兵力を結集し、約1万1千人がAFPFLの旗を掲げて日本軍に叛旗を翻した。



この時、日本軍に叛旗を翻した兵士の中には複数の日本兵もいたとされており、また、南機関でアウンサンと共に訓練した30人の志士の中には、世話になった日本軍に銃口を向けることを悩み自決を図った者もいたという。

AFPFLは烏合の衆も混ざっていたため、各地で盗賊まがいの略奪行為を行ったとされているが、イギリス軍はこの若き英雄を敵に回すのは得策では無いと考え、連合軍の指揮下に入ることで合意したため、アウンサンが罪に問われることはなかった。



1945年6月には対日勝利宣言を行ったものの、またも約束を反故にされ、再びイギリス領植民地となる。

その後も自治政府で重席を歴任しながら独立を訴え、1947年1月、英国首相クレメント・アトリーと、1年以内の完全独立を約束する「アウンサン・アトリー協定」の調印に至る。



その後、完全独立に向けての様々な交渉や調整に追われる最中、1947年7月に独立を見ることなく暗殺される。

暗殺したのは政敵で親日家のウーソー一派だと言われているが、イギリス軍が裏で糸を引いていたとする説もまた定説である。