播磨国⑥〜「空也と性空」共通の人物「慶滋保胤」〜 | exitastur1982のブログ

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先日書きました「日本の宗教を動かしていった播磨国峰相山」で播磨国峰相山で空也>や性空も、この寺に籠っていたと書きました。空也や性空>二人に共通する人物がいます。それが慶滋保胤(よししげ の やすたね)です。『今昔物語集』に「空也上人の弟子」とかかれてある慶滋保胤は播磨国とも深い関わりがあります。陰陽師⑤~法師陰陽師~☜こちらでも書きました姫路の 八徳山八葉寺は播磨西国三十三観音霊場の第三番札所で、慶滋保胤が出家して寂心と名乗り、堂舎を建てたことでも知られています。この八葉寺には、西の延暦寺と言われる書写山延暦寺の性空上人と別れたくないので、書写山のみえる八徳山に寺をつくったとという話もあります。また、性空上人も空也上人と播磨国峰相山で出会っていると言われており、播磨国の謎はやはり面白く、陰陽師のみならず平安時代の新しい仏教の動きをつくっていったといわれる 空也 性空 慶滋保胤という人物が出会う地、引き寄せる地でもあったのでしょう。☞慶滋保胤とは?▶陰陽道を生業とする下級貴族である賀茂家に生まれながら、菅原文時に師事し文章生、第62代・村上天皇皇子・具平親王の侍 読として仕えた。そのため、姓である賀茂を音読みで「よししげ」それに別の字を当てて慶滋と名乗っている。▶空也の大般若経供養会の翌年、康保元年(964)に慶滋保胤は比叡山僧と「勧学会」一種の浄土思想運動である念仏結社を結成。(3月と9月の15日に、比叡山の僧20人と大学寮北堂の学生20人が会して、朝に法華経を講じ夕に念仏を唱え、その間に法華経の経文を題として詩を作ったりした。)10世紀半ばの学問・思想の分野での若手のトップ・エリートたちは、儒学方面では大学寮、仏教方面では比叡山に集まっていたと考えられる。▶その後、わが国の往生伝の流行の先駈けになる作品『日本往生極楽記』(にほんおうじょうごくらくき)は、平安時代中期に慶滋保胤が編纂した往生伝。成立は寛和年間(985年 - 987年)頃と見られている。「往生伝」とは、極楽往生をしたものの伝記またはその伝記を集めたもので、『日本往生極楽記』は日本で最古の往生伝とされる。この書は、聖徳太子をはじめとして、皇族から僧・庶民にいたる計45人の極楽往生の伝記を載せ、保胤の浄土信仰に基づいて編纂されたもの。臨終の行儀や奇瑞を記すことに重点があり,貴族社会に浄土教の流行を導いたものとされている。空也上人、沙弥教信「称名念仏」を一般の人々に広めたと記し、後の一遍 親鸞などの大きな影響を与えました。▶986年 50歳代なかばで出家して寂心となのり、叡山の横川に入っている。世に「内記の聖人」と呼ばれた。それとともに勧学会は解散して、こんどは横川に二十五三昧会が結成された。源信と保胤は二十五三昧会の結成の中心であることが明らかであるから、勧学会にはじまった念仏結社は、ここにおいて二十五三昧会へと発展的解消をとげた。▶50歳になってようやく、自分の家を持った感懐を「池亭記」に記しています。「池亭記」は、前後2編からなり、前編は、京都 について論じ、後編は、貴族社会を批判し、自らの理想の生活を論じています。当時の 都(京都)の風俗を理解するのに、重要な資料となっています。▶「今昔物語集」で保胤が出家した後の逸話が3つ紹介されています。陰陽道を捨てて紀伝道を志した寂心(慶滋 保胤)は、播磨国・明石を訪れたときに、 法師陰陽師が河原で紙冠(かみこうぶり)をしてお祓いをしているのを見て、「僧が陰陽師のよなことをしてどうするのだ」と詰問すると、 「祓殿の神は僧を嫌うので、紙冠をするのだ」と言います。寂心は嘆き悲しんで怒り、法師陰陽師のかぶっていた紙冠を取り、引き破り、 泣いて諌めたが、「そんなに泣いてもらっては困る。あなたは確かに正しいが、私は僧では生活ができないので妻子を養うためにしかたなくやっているのだ」と。播磨国では僧ではなく、陰陽師の需要の高さが伺えることと、陰陽道を捨てた慶滋 保胤の気持ちが伝わってくる内容になっています。▶姫路市香寺町にある八葉寺 (はちようじ)は、行基上人の手により開基されたが、その後平安中期に慶滋保胤が比叡山にて仏門に入り寂心と名乗り、正暦年間にこの地へ移り堂舎を建てて再興している。寂心は姫路市の書写山円教寺を開いた性空上人と昵懇の中であったとされており、ある時寂心が沐浴のための湯釜を欲していた所、それを察した性空上人から湯釜が届けられたという逸話も残っているが、その湯釜は現在、姫路市指定文化財として本堂奥手にある奥の院に安置されている。☞実は、『日本往生極楽記』で「教信」のことも実は、『日本往生極楽記』で、親鸞・一遍・永観が目標にした偉大な先駆者「教信」のことを記している。教信は、播磨国賀古郡の賀古駅(かこのうまや)の北、現在の加古川市野口町野口に草庵を結び、阿弥陀仏の称名を常に口に唱え、後世では口誦念仏、称名念仏の創始者とされています。☞実は、『日本往生極楽記』で勝尾寺の「証如」のことも▶平安時代初期に、勝尾寺に居住した証如は、両親が疫病のため同日同時刻に死亡したのを悲しみ、弥勒(みろく)寺(勝尾寺の古称)に入って出家する。▶歳月は流れ弥勒寺の高僧と崇められるが、説法は無論、一切の布教活動はしなかった。境内に粗末な小庵(あん)を構え、食事は一汁一菜のみで日に1回。ひたすら転読を繰り返すうち、ふっと経典が無意味に思われて、絶望した証如は口を閉じ、一言も喋らなくなる。▶無言の聖者勝如の名が遠近に聞こえだしたころ、ある深夜、薄汚い老人が小庵を訪れた。「身どもは賀古(かこ)(兵庫県加古川市)の教信と申す沙弥じゃ。長い間南無阿弥陀仏を唱え極楽往生を願ってきたが、やっと本日念願がかなえられた。阿弥陀さまは弥勒寺の証如も来年の本日今夜、お迎えにゆくとおっしゃったから、告げにきた」と微笑しながら言ってふっと消える。翌朝勝如は勝鑑を呼び、十数年ぶりに口を開いてこれこれだと語り、「すまぬが賀古へ行って教信なる沙弥が本当におるかどうか、確かめてもらいたい」と頼む。▶勝鑑はさっそく播磨(はりま)(兵庫県)に下り賀古を訪れ、あちこち探し回った揚げ句、駅(うまや)の北で死体の横たわっている小庵を見つけた。犬や烏(からす)の群れが死体を食い荒らしている。勝鑑はそばで泣いている老女に声を掛けると、「この者は私が長年連れ添った夫で、教信と申します。生前は四六時中、弥陀の念仏を唱えておりましたので、里人たちは阿弥陀丸と呼んでいました。おとといの晩、急に息を引き取りましたが、埋葬してはならぬと何度も言い残したので、このままにしています」と、袖で涙をぬぐいながら話してくれる。▶勝鑑の報告を受けた勝如は、教信に畏敬(いけい)の念を覚え、無言の行に徹した自分の愚かさを恥じた。「無言の行ではだめじゃ。念仏の御利益を世に広めよとの仏の教えだ」、こう考えた勝如は村里に下り、片端から民家の戸をたたき、念仏の功徳を説き、大乗を広め始める。一遍上人においては、遊行晩年は敬慕し続けた教信上人の播州賀古の教信寺を終焉の地にと願って淡路島より明石浦(兵庫県明石市)に渡ったが、別便ご縁の迎えの船が兵庫の島(神戸市兵庫区)へ案内され、正応2年(1289.8/23)観音堂(現、兵庫区真光寺辺り)で往生されたといいます。神社・仏閣 ブログランキングへにほんブログ村 神社仏閣めぐり ...