どれほどの時間なのか

どれほどの距離なのか

それははっきりとしていないのだけれど

オートバイを引っ張り出して

どこぞの山の中や

どこぞの田畑の中を走って帰ってくると

アタマとカラダが妙にボーッとしている時がある



まあまあ、コチト等それなりの歳なのだ

以前に比べれば体力も気力もガタリと落ちているのは否めない

疲れかな

疲れなんだろうな

と、漠然と思っていた

が、一週間もそれが続くことがあって

何か別の原因もありそうだと少し気にしていた



先日、気田川沿いへ走りに出かけて行った後も

ブログやnoteの記事を書いたり写真をまとめたりに

数日かかったんだけど

その間、何度も記憶を手繰る度に

頭と身体がなんとなくぼんやりするのを感じていた

それはいつもどおり不快なものでなく、不思議なフワフワ感だった



なんだか旨いもん喰いながら

一杯やった時みたいな心地良さみたいだな、と思った

それでハタと気づいた

「あーこれ、酔ってるんだな」

オートバイで走って、楽しかったなーって

それに酔いしれてるのか?

ずいぶんコエー(こわい)なオレ



ドランク状態だ

パンチドランク(?)みたいなヤバいやつ

酔しれて、思い返してはニヤニヤしてる

「オートバイに乗って走りに出る」
      ↓
「とても良い、満足の走りが出来る」
      ↓
「家に帰ってドランク状態にしばらく陥る」



まあね、確かにオートバイで走ってると

ビターッと自分とオートバイが「一致」するのを感じることがある

腰(尻)と両足、背骨と体幹、そして頭

すべてがオートバイの動きとリンクして

体重を移したから曲がったのか

曲がったから身体の重心が移動したのか(ありえないけどね)

ボクがオートバイなのか

オートバイがボクなのか

そんな一体感

変なこと云ってるのはわかるけど

ボクにとってはまさにこんな感覚で

それはとてもエモーショナルだ

いやいや

さらっとさらにキモコエー(気持ち悪く怖い)こと云ってるけど

若い頃は一日で1000kmくらい走ることもあったけど

あの頃は帰ってきてからというより

走りながらすでにドランク状態だったような気もする



休憩もなく3時間とか、朝から日付を跨ぐまでずっととか

500kmとか、1000kmとかじゃなく

ターンパイクや西伊豆スカイラインでなくても

200km/hでも300km/hの超ハイスピードでもなく

そんな物理的なことは関係ないんだ

近所のコンビニまでなのかも知れないし

2速、2000rpmで延々と酷道を進んでいくことかも知れない

自分のことなのに要因がはっきりしないけど

何かが引き金、何かが地雷、何かがウィルス

でもホントはそれがとても心地いい

晩酌に焼きナスをつつきながら

キンミヤのハイボールで安く酔うのに似ている

ボクにぴったりの小さくてふんわりした幸せだ

なんでもいいさ

幸せは大歓迎だ




高速道路の入口で一旦オートバイを止めて

かけていたサングラスを外しゴーグルを下す

毛ムクジャラの口元は相変わらず露出したままなので

湿った風が顔の皮膚にジットリとまとわりついてくるのがわかる

梅雨の晴れ間だとて湿度はかなり高い



いくつかトンネルを越えるとほどなく静岡に入り

電光掲示の制限標識が120km/hを示す

30年前のオートバイと云えどもドイツ生まれのクロ介

水を得た魚のごとき走りを見せる

5速 4000rpm

クランクに伝わる固い振動が全体を包む

「まだいけるよ」とクロ介は唆すが

顔に喰い込むゴーグルの感触がそれを阻む

ボクがジェットヘルとゴーグルを愛用する理由はまさにこれで

高速走行で落ち着かないゴーグルがクロ介の誘惑から気を逸らしてくれる



浜松浜北で下へ降りて天竜の街を過ぎ、国道362号線へ進む

春野辺りまで気持ちの良いワインディングが続き

中央線も破線でストレスがない

火伏の神、秋葉神社の下社を過ぎると

おおらかな流れの気田川とたびたびクロスするようになる

久しぶりに来たからやっぱり天狗を見に寄る



何度か見てるけど天狗ドンの目ん玉に照明が仕込んであるのを発見

初めて気づいたよ

夜中に光るのか?(コエーよ)

にしてもいっつもツルツルのテカテカの天狗ドン

このすぐ先の宮川橋の欄干には子天狗も隠れてる



三尺坊という坊さんが天狗になって火伏の修業を秋葉山でしたことから

このあたりに天狗伝説があるのだそうだ

ここ遠州の西隣の三河にボクは住んでるけど

ボクの集落にも「あきやさん」の小さな祠があるし

秋葉講もまだ存在しているくらい身近な存在だ

「秋葉みち」とよばれる街道が広範囲に今も残っている



このまま気田川の美しい流れをたどるため国道を離れ

谷筋を北へ延びる県道に入る

県道389号線はその取っ付きが狭いが

分岐点には立派な柱が立ち

「森とロマンの道 水窪森線」としっかり記されている

途中の勝坂という集落に古くから神楽が伝わっていて

その神楽が開かれる秋には人が集まるようだ

柱の上には神楽で舞う獅子のかしらが乗っている

集落の果て「門桁」まで19km

しかしこの19kmが大げさでなく果てしなく遠い



県道に入るとすぐに有名な「小石間トンネル」

昭和初期の気田森林鉄道の遺構で狭くて長く離合困難だ

先日の豪雨で北端のトンネルポータルの上部が崩れたようで

通行は可能だったがセンサーで監視を続けている

異常を知らせる回転灯に従うよう指示されていた

入口には「幅員3.2m、全高3.8m」の規制標識

オートバイなのでそれほど緊張しないけど実際かなり狭い

トンネル内部は断面に沿ってカマボコ状に並んだリフレクターが

何箇所かあってちょっとアトラクション気分だ



トンネルを出るとまだ川幅広い気田川

山間の開けた場所に野尻と豊岡の集落がつづく

それが途切れるあたりに小さなダム

そして支流の石切川との合流部に大きなトラス橋と豊岡発電所とつづく

発電所が背にする急峻な斜面を一気に下る水圧鉄管の迫力がすごい

ていうか、この水どこから来てるのか不思議だ



この先に勝坂の集落がある

大きな赤い吊り橋とその向こうに神楽の出発点になる勝坂小学校

吊り橋のワイヤーの台座に2頭の獅子

遠州の北部は戦国時代に武田、今川、徳川が入り乱れ

覇権を奪い合った地域なので人の行き来も盛んだったのだろう

小さな砦跡もいくつか残されている

県道389号線は眺望も悪く、整備状況も決して良くはないし

(勿論あれだけの豪雨でもルートが確保されているのは相当の努力がある)

気の利いた食堂どころか店と呼べるものすらほぼない街道だ

けれど、日本古来の山村風土がまだ感じられる好いルートだ

神社や砦跡など見どころも多いので歴史好きにはおすすめできる





勝坂を越えるといよいよ道は心細くなる

横目に見え隠れする美しい渓流とは裏腹に路面状況はさらにシビアさを増す

流れ出した土砂やコブシ大の落石

落ち葉や枯れ枝が散乱し、濡れた苔がびっしりと路面を覆う

おまけに幅員は激狭(ゲキセマ)だから

気を付けていないとラインを失う

すぐ西側の尾根筋を北上する天竜スーパー林道が「陽」のルートなら

その東側の谷筋を北上するこの県道389号線は「陰」のルートか



初めは美しい流れに目を奪われ俄かに気分が高揚するが

次第に、走ることそのものに没頭している自分に気づく

くねくねとくねくねと本当にくねくねと

シビアな路面に神経を研ぎ澄まして(神経を削られて)2時間

ただひたすらこの街道をたどり続けた

そして

そうやって走りながら

自分がいったい何処に向かって走っているのかが曖昧になり

やがて分からなくなっていくのだった

―もう何処へもたどり着かなくてもいいんだろ?

このまま、くねくねとくねくねと、どこまでもどこまでも





門桁の集落を抜け、小さな堰の上を渡ると

県道はいよいよ気田川を諦めて峠へと上り始める

急峻な東向きの斜面を600mくらい一気に駆け上がるため

ルートは一度南に向けて大きくトラバースする

しかも複雑に入り組んだ尾根と谷を丹念になぞって行くので

さっき以上にくねくね、いやグネングネンだ

まあ上りなのでライディングは楽だけどね



ひと気のない山住峠に到着

ここに始めて来たのはいつ頃だったか

このシカ君、そん時からずっといるよ

この先、水窪の手前で時間通行止めがあるので

時間調整も兼ねてここで休憩した



駐車スペースの端っこに木陰

イヌザクラか?ウワミズザクラか?

花を盛んにパラパラ散らしていた

いつもどおりのスタイルで休憩



しかーし!

今日はちがう



「完全めしーーーーー!」

何を隠そう今頃になってドハマリして

今週、2個目だゼェ~!
 



ひどい雨が降ったあと

山の中をくねくねと進む頼りない道は

どこも山からの水でビシャバシャで

土砂や砂利の流出

木々の倒壊や折れた枝の散乱

人が作るモノをまるで無かったことにするかのような暴れぶりだ



ネットでざっと眺めただけでも通行止め箇所は多く

探検気分で出かけていくのも面白そうだけど

一生懸命復旧している人たちのことを考えると申し訳なくもあり

出かけて行ってどこかにたどり着けるという保証もない感じだった



梅雨空の中

山から流れ出た水で川になる道路を突っ切っていく

クロ介はすでにびしょ濡れで

ボクの両足の脛にはびったりとチノパンツが張り付いて気持ち悪い

「帰ったらしっかり洗ってやるから」と

クロ介をなだめながら迂回路を彷徨う

でも、これはこれですごく楽しい走りだ

雨上がりは山のにおいが強く湧き出し

すべてがしっとりと濡れそぼり

湿った重い空気が皮膚に纏わり付いてくる

おまけに足元に伸びる両方のシリンダーからは

この頃かなりの熱気で

信号待ちはすでに忍び寄る夏を強く思わせる



海沿いに発生した線状降水帯の影響は山へ向かい北へ行くほど薄れる

いつもの涼風の里は案外平静で挟んで流れる二本の川もすでに落ち着いていた

この先の三河湖へ通じる県道で通行止めが出ているけど

避けて走ることは容易だ



アルコールストーブにヤカンをかけて

湯が沸くのを待つ間も

最近頭の中をグルグルして離れない思いがまたすぐに浮かんでくる



先日、久しぶりに近所の写真屋に行った

といっても全国展開するキタムラだ

本当に久しぶりだったので、店内の様子がすっかり変わってしまっていた

今日の目的は、カメラの液晶モニターに貼る保護フィルムなのだが

そんなに広くはない店内を2周しても一向に見つからない

仕方なく店員に尋ねると

「今はコーティングが主流になったので保護フィルムは処分品しかない」

と答えた

最近のカメラ事情には疎いとは云え、あまり聞いたことがなかったので説明を求めると

30分ほどの店内作業で保護フィルムより硬いコーティングが可能ということだった

コストは3,000~5,000円

店内にわずかに残る保護フィルムのデットストックはどれも1,000円程度だったので

とりあえず店員をヘラヘラしながらかわし保護フィルムを買うことにした

それから、せっかく来たからということで

ずらりと並んだ最新のカメラを眺めることにした

ソニー、とかパナソニックとか家電屋が幅を利かせている

かつてニコンは35ミリ一眼レフカメラのトップブランドであったが

オートフォーカス化とその後のデジタル化の波に乗り遅れ

相当苦戦していた

しかし、その根本原因であったFマウントというレガシーを

捨てる決心をしてからニコンのミラーレス一眼レフはようやく

トップクラスへと返り咲くことができた

最新の中級機Z8は、ボディのみで60万円

正直云ってこんな価格帯のフルサイズミラーレスを買う選択は

現実的じゃぁない気がする

どうせほとんどモニター上でしか画像を見ないのだから

APS-Cフォーマットが価格的には現実的だ

そこにニコンのZfcが展示されていたので手に取ってみた

「!」

あまりもの軽さに展示用のダミーかと思った

ケーブルが繋がっているので実機だろうとスイッチを入れてみると

果たしてカメラは作動した

「ナンダコレハ?」

軽量ボディというよりチーププロダクトではないかい

だからといってZ8買おうとはならないし

あなた方が「望むスペック」をまじめに組み込めば

60万円かかりますよ

でも簡単気軽に写真が撮りたいならこんなのどうですか?

お安くしときますよ、みたいな感じ



ボクが初めて買ったのはもちろんフィルムカメラで

オリンパスの初級機OM10だった

ボディは4万でf1.8の標準レンズ付きで6万を切っていた

ボクは見栄を張ってf1.4のレンズ付きで買ったので

定価では66,500円だったけど

新宿東口のヨドバシカメラで5万円くらいだったと思う

本当はミノルタの両優先機XDが欲しかったけど

その時プータローだったボクにはこの辺が身の丈だった

当時、35ミリ一眼レフのトップブランドはニコンF2フォトミックA

f1.4標準レンズ付きで138,000円だった

最高級機なのにOM10の約倍の価格しかしない

もちろんデジタルカメラとフィルムカメラを単純に比べられない

ネガカラーなら1本撮るのにランニングコストが1,000円はかかり続ける

リバーサルカラーならその倍以上かかる

200本撮れば50万円以上かかることになる

いやいや、ランニングコストかからないからといって

イニシャルコストが高くて良いってことじゃないでしょ



近頃よく云われることだけど

日本の給与水準は世界で見れば低いレベルで

日本人は総じて貧しくなっているらしい

にもかかわらず目にするのは贅沢な暮らしぶりばかりだ

身の丈に合っているのか合っていないのかは人によるだろうが

つまり「貧しさ」はあえて目に付かない場所へ置かれている気がする

60万円もするカメラ

1,200円もするモンブラン

2,000円もするカキ氷

200万円もする軽自動車

そして、44万円もする125ccのオートバイ

どれも価格とモノのバランスがしっくりこない

「プレミアム」という言い回しを最近よく聞くが

そもそもマスプロダクトにプレミアムなモノなど本当に存在するものなのだろうか

プレミアムと名付けるビジネスモデルは正直あざとい



高コストであっても高付加価値のモノでなければ売れないのか

過剰に自動化が進めたためにコストが上がったのか



1秒間に8コマの巻き上げは機械でないとできないが

1コマの巻き上げはレバーで十分だ

カメラに向かって時速200km/hで走ってくるクルマに合焦させるのは難しいけど

ほとんど動かない被写体なら自分でピントを合わせればいい

誰にも簡単に完全な写真が撮れる気にさせるカメラは

とっつきにくいマニュアルカメラと何ら本質は変わっていない

写真が撮れる仕組みに変わりがないのだから

ハードでどれだけ自動化、予測化を進めても

写すことは可能でも表現まではやってくれない

歌は唄えても歌を表現できないのと変わらない

60万円のカメラとスマホのカメラの違いを理解できないのに

本当に必要か?

お金もあるし、買いたいんだからいいじゃん

もちろん、どうぞどうぞ、だね

でも多分買わなくてもいいと思う

なのに買いたいのはなぜなのか

本当は誰も気づいているんだと思う

消費者が変わらなくては製造者はこれをやめない

価値のある企業が廃業に追い込まれ

資本力を笠にブランドと技術力を飲み込んでいく

金を積んでも人と違うと云われたくて必死な消費者に

誠実の仮面の下で舌を出しながらモノを売りつける

いつしか市場には同じようなモノがあふれ

いいように利益をむしり取っていく

街の商店街はなくなり

街の工場はなくなり

勝ち組という言葉で市場を牛耳る輩がのさばる

これまでどれほど自分たちに本当に必要な大切なものをなくしてきたことか

貧しくても温かい社会を取り戻してほしい

時短とかタイパとかくだらないこと云うなよ



写真屋で会計を済ませたあと、店員に

(写真フィルムが見当たらなかったので)「ここはフィルムは置いてないんですか?」

と尋ねてみたら、メーカーが生産を中止している、と答えが返ってきた

6月には入荷予定があるから予約は受け付けると云う

店を出てオートバイに跨りながらなぜだかモヤモヤとした

どうやら長く生き過ぎたようだ

人生はやはり50年くらいがちょうど良い

10年ひと昔と云うが(今も云いますよね?)

50年となれば、ひと時代なのだろう

あの頃「は」よかった、なんて云わないけど

あの頃「で」よかった、とつくづく思う




「ライダーの感情を可視化した地図アプリ」と題するネット記事を

たまたま目にしたが

またか、と

瞬間的に、嫌悪感と猜疑心を持った

アプリという名の金儲けは内容よりも

いかにキャッチーであるかが重要だから

こういう手法がほとんどだ

よく似たやつに健康食品や美容用品があるが

訳の分からないカタカナを並べて

庶民の代表みたいな人たちが口を揃えて「個人の感想」を述べる

青汁がどういいのかではなく

青汁だからいい、と連呼している

これについてはボク的に看過できない感じなので

気を悪くする話をまた今回もする



「仮想センサ」という、分かるようで分からないプログラムで

ボディセンサ(主に心電)などから集められたバイタルデータを解析し

そこにあるはずの「感情」をAIなどで可視化させ

地図上に反映させるアプリだ

つまり集めているデータは「快」「不快」の感情ということなのだろうが

その「快」イコール「ライダーの快」という前提にまずクエスチョンが付くし

いったいその「ライダー」とは誰のことなのだろうか、と端から胡散臭い



ボクは大学で心理学を専攻していたので

人の心とかいう問題には、当たり前だが、こだわりがある

心理学を学ぼうとする人は講義の冒頭で先生から執拗に

心理学とは占いの類とは別次元の科学であると刷り込まれる

クレッチマーとか古典的な類型論は心理学史として習うだけで

人には誰しもありとあらゆる感情や情動があるというのが基本だ

どんな人にも大なり小なり様々な感情が存在している

だけど世間にあふれるイメージだけの類型論は

非科学的であるにもかかわらず

人を引き付ける強力な力がある

それは掴みどころない他人を類型にはめて分かっているつもりになり

対人関係を安心なものにしたいという気持ちがその裏に強いのではないだろうか

実際、ボクはA型なんだけど「O型ですよね?」とよく聞かれる

類型論にするには血液型って4種類でちょうどいい数だ

血液型累計論なんて統計的には血液型の構成比にすべて集約される

よく目にする性格判断にある「休みに家にいることが多いか?」みたいな質問も

それだけで「内向的で神経質なタイプ」とか言われたりする

ボクは意図的にあの手の類型論なら自分で誘導する自信がある

心理学は実験を通して結論を導き出しているので必ず再現性がある

気の弱い人が暗闇で幽霊を見てしまう、のは「錯覚」だが

ミラーリエルの矢羽根のついた線分は

誰がいつ見ても線分の長さを見誤る「錯視」という現象だ

「AI」というマジックワードと

ひとの「こころ」という対象は単に非常にキャッチ―な組み合わせ

お金の匂いしかしない



悪い印象を持ちやすいものを考えればわかりやすい

「戦争」に対するイメージはほぼ100%の人が悪いと思うが

「穏やかに晴れた5月の休日」はどうだろう

好きだという人もいるだろう、いや案外多いかもしれない

でも大抵の人にとっては、どうでもいい話で

「穏やかに晴れた10月の休日」とあえて比べる気にもならない

何かが旨いとか

どこかが素晴らしい景観であるとか

人によって違うだろうし、また当然違っていていい

「みんな違って、みんないい」  by 金子みすゞ

生命や財産に直接かかわらない事柄などどうでもいいのだ

どうでもいい、つまり何でもいい

何でもいいから好みは人の数だけある

そして好みの種類も強さも人それぞれだ



なのになぜか「ベスト」を知りたがる

そこに病理がある気がする

大概、ベストは「多数」でしかない

「一番」売れている、食べられている、でしかない

まあ、なんとなく好きってことだろう

誰もそれを良いものだとは云っていない

クルマで2022年度に最も売れたのは「N-BOX」だ

だから日本の一番いいクルマが「N-BOX」だ、とはならない

ちなみに云えば2位は「アクア」

この2台で50万台を超えている、シェア11%

新車を買おうとする人の10人に1人がアクアかN-BOXを買っている

余計なお世話だけど、これ異常な数字だ

にもかかわらず、そんなにいいクルマでもない

悪くない価格相応のクルマ、って位だろう



多くのライダーが走っているときに

気持ちいいと感じたり、逆に緊張や不快を感じたりした

ルート、場所をデータ化し地図上に反映する

みんなが良いと感じているらしい場所を目指して走り

みんながここちょっと怖いと思う場所を避けたり注意したりするというなんだとさ

それがなんだというのだ

「君」の気持ちはいったいどこにある



自分の人生の主人公になろう

自分の行く道は自分の意思で選ぶ人になろう

自由に、積極的に人生を美しいものにしよう

既存のルートや常識に縛られない人になろう

自分の行く道は自分で決めたほうが楽しいに決まっている

人生のドライバーになろう

Be a driver



前にも書いたことがある

マツダのメッセージだ

マツダは世界シェア2%でも自分たちが作りたいクルマを作れる道を選んだ



他人に共感されないモノはダメで悪いモノなのか?

意見をぶつけ合うことがイヤみたいだけど

真の共感はその先にしかない

共感も反感もみんな丸ごと飲み込むこと

あなたはこういう理由でこれを望むんですね、と

分かることこそが共感だ

多くの人の好みをなぞりに行くことのどこに何があるというのだ



誰にも自分の持ち物の中に

取るに足らない下らないモノなのに

絶対に捨てられないモノがひとつやふたつあるはずだ

自分にしか持てない特別な感情や記憶が

そこには確かにあると誰もが知っている

それは他人には伝わらない、伝えきれない思いだったりする

でもそれを分かろうとすることこそが共感なのだ

何も持っていなくても

自分の選んだ生き方をしているほうがマシだ

他人から認められたくて自分を無くすくらいなら

いっそネコになりたい



大好きなオートバイに乗って

いつでも、どこへでも

自由に気ままに走ろうよ

そうやって辿り着いた場所が

素敵じゃない筈がないよ

自分の目で、耳で、鼻で、舌で、手で

感じたものこそが「自分」なのだから



鳥のさえずり忙しい5月の空

乾いた大陸の風が

この極東の島国だにも

一瞬ではあるが北欧の夏の情景をもたらす

実を結んだ草木は

絶え間なく吹き付けるその風に楽しげにその影を揺らす

梅雨が始まるまでのこの刹那

いちばん好きな季節かもしれぬ



勤めに出ていたころは

おおいに自律神経の不調に悩まされていたが

いわく、ストレスのせいだ、と

しかし、なーんにもしとらん今日この頃のはずなのに

ちっとも何かしようという気力が湧かず

「鬱」のような気分がしてモヤモヤするのだ



Siriに「ストレスがなくても鬱の症状って出ますか?」と問うたら

いつものような溌溂とした声ですぐさま

「こちらがみつかりました!」と見せてくれたのは

どれも鬱の原因はストレスだ、というものばかりだった

けれど鬱の原因が内因的である可能性は本当にないのだろうか



人間本来のストレスとは

多分、直接的に生存を脅かすようなものだろう

中でも食欲はダイレクトにそこに関係している

とはいえ現代において普通の社会人が

食欲を阻害されるなど、医師による食事制限位なもので

(それだって簡単に回避できるが)

ありとあらゆる食物が巷に溢れかえっているのを見れば

食欲に関しては今やストレスフリーだろう

ただし、金があれば

でもってその金だって2時間も働けば十分だ

じゃァ、あとは何だ?



心理学者のマズロー先生が説いた有名な五大欲求というものがある

生理的欲求

安全の欲求

社会的欲求

承認欲求

そして自己実現欲求

生存そのものに関わる欲求と

生存の質に関わる欲求の2段構えに見える

食べたいとか眠りたいという欲求より

認められたいとかこう成りたい、という欲求の方がタチが悪い

なぜならそれは人によって質が異なっているからだ

「○○ちゃんのおかあさん」と呼ばれている姿を見て

同世代の人は社会的な存在感を感じる人がいても

「私は母親になりたかった訳じゃない」と本人は思っているかもしれない

他人から見れば部長は十分な地位でも

当の部長は社長でなければ無意味だと思っているかもしれない

ひとからスーツ姿が凛々しいと云われても、ピンクのワンピを望んでいる人もいる



阿呆なことを云うけれど

ボクは子供の頃から放浪者になりたかった

もちろん子供の発想だ

レジスタントや革命家に憧れ

ヒッピーやルンペンに痺れた

社会的なモノには目もくれず

他人の承認なんてどうでもよかった気がする

60(歳)目前で会社が危うくなった時だって

今かよ?と感じながら半面ではやっとドロップアウトできるか?とも思っていた

ひねくれているように聞こえるかもしれないが

結果的に見事、自由人になった

このために我慢してここまで働いてきたといっても過言ではない

欲求の頂点

自己実現を果たした訳だ

ネコのように生きる、暮らす日々

やる気が湧いてこないのは「鬱」のせいではなく

そもそもやる気などハナから無かったのだ

晴れた空を眺め

乾いた風に吹かれながら

意味もなく「ハハハハ」と笑うしあわせ



気温15℃は、走るには寒いと

去年の晩秋に御嶽へ行って思い知ったが

このところの暖かさから

標高1000m辺りの気温を想像できず

来てみて「サッブー」とぼやきながら

横目で道路脇の気温計に「15℃」の表示を見つけ苦笑するのだ

ペラペラのパーカーの下はなんと半袖Tシャツ

クロ介のハイパー風防が無ければ

凍え死んでいたやも知れぬ



可能な限り国道を外して県道・農道・林道をつないで走る

県道10号線は久しぶりの登り側になった

バンクした時に路面が近いと感じる程の勾配

ずんずん上って途端に凍える寒さだ

津具・売木の町をブルブル震えながら通過

それでも天気だけは良いのがせめてもの救いで

国道153号線の気持ち良さは寒さをしのぐものだった



平谷の道の駅を通り過ぎ

治部坂へ続く峠を登り始めるところに

高峰への入口がある

前を行くトライアンフが道を譲ってくれた手前

勢いをつけてバビューンと先行するが

入口はすぐそこ

トライアンフがそこをバビューンだ



あーそうですか

冬季通行止めは時期的に終わっているはずなので

道路崩落による通行止めなのだろう

いや、調べてから来いよ、なんて突っ込みは無用

もちろん調べてきてるのよ

では、なぜ?

いや、だって自分の目で見てみなけりゃわからんでしょ

ちなみに平谷の道の駅の裏手から延びる登山道からは山頂へ行かれるようだが

登る気なんかもちろんない

とりあえず道の駅へ戻る



こんなに天気が良ければさぞかし南アルプスの眺めが良かろうと思っただけで

もともとそこまで高峰へ上りたかった訳ではないし

ここまで相当楽しい走りだったから本当にどっちでもよい

トイレを済ませて尿意から解放されたアタマで

帰りのルートについて思いを巡らす

県道にそれなくても153号線は空いていたので

そのまま伊勢神まで戻って

あとは大多賀へまわって加茂の農道をつなぐことにした



もう寒いなんて云うのもここまでだろう

そろそろ梅雨の気配が天気図から見えてきてるね