海を見に行ってきた。
近くの海だ。
大きな二つの半島に囲まれたやさしい海だ。
やさしく凪いだ水面に、柔らかな冬の日差しをキララと反射して、
風さえ穏やかな静かの海だった。
護岸堤にもたれて、のんびりと海を眺めた。
聞こえてくる音と云えば、
トンビの風のような鳴き声と海の唸り。
時折、セントレアへアプローチするジェットの音。
ボクはここで海を眺めながら、よく死を意識する。
と云うより、生命の消えた地球を思い浮かべるのだ。
お祭りさわぎの数億年後にも、やっぱり海はゆっくりと波打ち、
風はどこからともなく吹きわたるのだろう。
命を疎ましくも思うし、命を愛惜しくも思う。
お父さんやお母さんを思い、
自分が消えた後の世界を思う。
どんな物語よりも、どんな音楽よりも、
この眼の前の景色に、心癒され、心が解き放たれる。
ボクはいま本当に自由なのだ、と。
ブログを書くこと。
ブログを読んでいただくこと。
そのどちらにも何か得体のしれない魔力があることを感じている。
ブログを書いてみたいと思ったのは、もちろんボク自身だし
誰かに勧められた訳でも、ましてや強制された訳でもない。
敢えて云えば、読んでいただいている方への
何らかの責任、誠意、、感謝、いやホントは何だかわからいない「何か」が
ブログを書く行為の裏にあることは事実だ。
けれど、そのひとりよがりな「外への感情」に
なぜだか自分が書いているのに、居心地が悪い、後味が悪い、
私的な行為のはずなのに自分が楽しめていない、
そんなモヤモヤがどんどん貯まって、
ついには、何だかわからなくなってきている。
〇
ブログとは自分にとって何だったのか。
ただの自己顕示欲の発露だったのか。
もしそうなら、あまりに浅ましい行為だったと、「ボク」は感じるのだ。
もちろんブログである以上、読者を意識しないのは無意味だし、
できれば多くの人に読んでもらいたいとも思う。
では、それはなぜなのか?
もう一度、そこへ帰って自問したいと思う。
私的な日記でなく、ブログを書き、ネット上にアップすること。
その目的を見失ったままブログは続けられないのだと、今は思う。
人から見れば下らない事だろう。
でも、ボクには大切なことだ。
こんな阿呆なことを書いて、それでも人に読んでもらいたいと思うのが
まさに「ブログ」なのだから。
〇
早い話、「違和感」が耐えられないほどの大きさになってしまった、ということだ。
それは去年の春以来、解消されないままどんどん大きくなってきていた。
それが解消されるまでは次へは到底進めないといった気分だ。
1カ月後なのか、1年後なのか、それとも明日なのか、
自分でも今ははっきりしていない。
「冬眠したい」
まあそれくらいのニュアンスだと思う。
春になればきっとモソモソと起きだして、
そ知らぬ顔でオートバイに乗って走っているのでしょう。
と云う訳で、ちょっと冬眠します。
おやすみなさい・・・・・・





