ごきげんよう、まんきんたんです。
松山でまだ歩いたことのない町を訪ねるシリーズ、今回は松山市河中町です。
この町も車で通ったことは何度もありますね。
317号線を走っていると日浦小学校の校舎が見えるんだけど、この辺りが河中町。
ここからニジマス料理の『せせらぎ亭』に行けるんだけど、『せせらぎ亭』があるのは福見川町なんだ。
前回紹介した水口町も隣町で、ここ河中町も福見川町もやはり山あいのホタルの町なんだ。
国道から南側は森林地帯でほぼ民家はなく、北側も石手川沿いに小さな集落があるだけでその北の方は森になっています。
そんな中、目についた物件といえばかろうじてここでした、『河中公民館』。
と、その横にある神社。
『両新田神社(りょうにったじんじゃ)』とあります。
なんと 『坂の上の雲』で知られる陸軍大将・秋山好古が書いた社号額ではないですか。
神柱(しんもん)には「英風(えいふう)」「神理(しんり)」の文字が。
「英風」とは優れた教えという意味。
「神理」とは神の定めた道理という意味があります。
「両新田」にはどんな意味があるのでしょう?
すぐ横に本殿が見えてました。
古い拝殿ですね。
「両新田神社」の祭神は、新田義宗(にったよしむね)と脇屋義治(わきやよしはる)の2柱。
先に紹介した水口町の重松神社と同じ人神(ひとがみ)様ですね。
足利勢に敗れた南朝方の武将をこの地に連れ帰ったのが重松兄弟でした。
その連れてきた武将というのが新田義宗と脇屋義治で、この2人は新田義貞の三男と義弟と言われています。
日本史で勉強した新田義貞(にったよしさだ)といえば、鎌倉幕府を滅ぼしたすごい人物。
南北朝の動乱においては、南朝の「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)側について、足利尊氏(あしかがたかうじ)と対立したと学びました。
この辺りの伝承では、新田義宗と脇屋善治は、北朝方と各地を転戦していましたが、当地の領主・得能家にかくまわれ、当地で亡くなったと言われているそうです。
のちに伊予国の河野家の当主、河野通直(こうのみちなお)がそれぞれの霊を祀り称えましたが、その後一つに合祀し、今の「両新田神社」と改めたそうです。
実は新田義宗と脇屋善治が没した場所・没年は諸説あって、各地に伝承が残っているのです。
しかし、隣町の「円福寺」には2人の位牌があり、「両新田神社」の境内奥には少し離れてますが2人の墓が残っています。
今から600年も前のお話ですからね。信じるも信じないもあなた次第。
ただ、本殿の壁面には、新田義貞一族の末裔である新田長次郎(のちの松山大学の設立者)の「寄付者芳名板」が掲げられていて、その信憑性を物語っています。
新田高校の創立者・新田仲太郎は長次郎の甥(おい)ですね。
天井には、秋祭りに活躍するであろう神輿が吊り下げられていました。
本殿から下った境内の端には松山市指定天然記念物の「お杖椿」があります。
ツバキのうちでは県下一の大木。
確かにデカイです。
花の咲く時期にまた訪れたい。
このツバキにもいわれがあって、新田義宗がこの地へ来たとき、杖にしていたツバキの枝を突き立てたまま放置していたところ、根付いて成長し花を持つようになったのだとか。
ほんまかいな
いや、本当なのでしょう。何百年も語り継がれていれば、細かい部分は変わっていると思うけど。
その傍らには「義宗公腰かけの石」もありました。
何人もの人が腰掛けたであろうこの石に、まんきんたんも腰掛けさせてもらいました。
腰掛けて眺めた「お杖椿」。
600年前はどんな景色だったのでしょう。
ただ草がぼうぼう生えていただけだったかもしれませんね。
いい木漏れ日だ。
今はのどかな時が流る河中町も、かつては穏やかではない厳しい時代があったのですね。
今日も明るく、陽気な1日にしましょう!