ごきげんよう、まんきんたんです。
『荘子』の中にこんなお話があります。
ふと見ると、一人の老人が畑仕事をしていました。
大きなかめを担いで、池から水をくんできては、畑に注いでいます。
若者は「はねつるべを知らないのですか? 一日で畑に水をまけますよ。小さな力でその効果は絶大です。試してみてはどうですか?」
老人は「どうやるのかね?」
若者「木をくりぬいて、からくりを作るんです。後ろは重く、前は軽く。小さな力であふれるほどに多くの水をくみ上げられるのです。その機械の名を“はねつるべ”といいます」
老人はほほえみながら答えた。
「私は先生に言われたことがあるのです。
『機械を持つ者には、機械のための仕事ができてしまう。
機械のための仕事ができると、機械の働きに捕らわれる心ができてしまう。
機械の働きに捕らわれる心ができると純白の心が失われ、
心が不安定になってしまう。
そして、心に安らぎがなくなると、人の道を踏み外してしまうのだ』と。
私は機械の便利さを知らないのではないのです。
機械に頼って生きようとすることが恥ずかしくて、そうしないだけなのです」
若者は、自らのおせっかいを恥じて、返す言葉を失いました。
(『荘子』天地篇 第十二より「機心」)
最近、このお話を思い出すような出来事がいくつかありました。
たとえば、この春からバイク通勤をやめて、徒歩で職場に通い始めたのです。
理由は単純に健康のためとガソリン代節約のため。
一石二鳥ではないですか!
自分にとってはね。
ただ、他人からは「それは良い心掛けだね」と受け容れてくれる人ばかりではないのです。
仕事で週に何回か、歩いて15分くらいのところに納品しないといけない用事があるんだ。
それが、これまではバイクだったから10分程度で済んでいたのが、徒歩にしたら往復30分かかってしまう。
それは良くないんじゃないか?という指摘があったのです。
この人は大きな勘違いをしているから当然無視です。
まず、バイクは会社のものではなく私物であるということ。
通勤や仕事に使おうが使わまいが自由で、誰にも迷惑をかけていません。
仕事でいうと、そもそも納品に細かい時間の指定はないのです。
5分後に届けようが15分後に届けようが、やるべき仕事としては同じです。
これが5分後に持ってきてくれと言われて、その約束が守れなかったなら別ですけどね。
徒歩通勤にしてから、体調がますます良くなり、体重も減りました。
仕事も快適にこなせるようになったので、心に安らぎがない人から見れば、それがなんとなくおもしろくないのかもしれません。
一時はわざとじゃないかと思うほど納品の数が増えたんですよ。
ところが、こちらが「やった!筋トレの時間がまた増えた」と好意的に受け取っていると、見る人は見てくれているものですね。
社用車を使うといいと提言してくださる方が現れたのです。
ただ、そもそも徒歩にした目的はそこではないので、もし大至急という仕事であればお借りしますと言って、歩きの理由を説明する機会がありました。
一時、少しだけ嫌な気分になりかけたものの、やっぱり機械の働きに捕われない心でいて良かった!という出来事でした。
ちょっと直接「機心」からはズレた話に思えたかもしれないけど、そもそもまんきんたんが手作業にこだわるのは脳いっ血の後遺症で手がしびれているからなんだよね。
ストレッチしたりして、あえて手足を動かしてリハビリをしないといけない体なんだ。
周りからはそんなふうに全く見えないから、健常者と思われているはず。
昔、親戚のおばさんがリウマチで苦しんでいて、「辛いんだ」という話を聞いたことがある。
その時はまんきんたんも健常者だったから、どんなふうに辛いかがわからなかった。
「痛い痛い」という指をマッサージしてあげながら、「どんなふうに痛いの」と聞いてみた。
「ピリピリとしびれて痛いんだ」と言う。
足のしびれとはまた違うというし、「しびれて痛い」という感覚がさっぱりわからなかった。
それが今ではとてもよくわかる。
だいぶん良くなったとは思うけど、一時は朝起きたら、このまま手が固まって動かなくなってしまうんじゃないかというほどしびれて痛い時期もあったんだ。
だから、なるべく作業は楽をせず、手足を動かすことに積極的に取り組んできたし、機械を使うとすれば握力を強化する「ハンドグリッパー」とか、そういうものばかり。
せっかく五体満足なのに、それに感謝することなく、便利で楽ができる機械にばかり頼ってる人を見ると、「もったいないなー」と思ってしまうのです。
そして、同じように後遺症で苦しんでいる人には、その痛みから逃げる方法ばかり考えるのではなくて、積極的に痛みに向き合ってみることを勧めたいのです。
今日は少しまじめな話になりました。
良い1日をお過ごしください!