小野田紀美参議院議員の発言「私は自民党でも安倍総裁でもなく、卑弥呼の時代から続くこの国そのものに忠誠を誓っている」(実際の発言はX投稿で「私は卑弥呼の時代から歴史を刻んできた我が国そのものに忠誠を誓っています。国民にではありません」)は、現代の民主主義国家である日本において、極めて問題のある表現であると言わざるを得ない。


政治家は主権在民の原則に基づき、主権者である国民から選挙を通じて信託を受け、その意思と利益を代表して政治を行う存在である。

日本国憲法の前文および第1条、第15条などで明確に示されるように、国家の権力は国民に由来し、政治家は国民の代理人として行動する義務を負う。「国民ではなく国家そのものに忠誠を誓う」という姿勢は、国民の意思や利益を二の次にし、抽象的な「国」を優先させる危険性を孕んでいる。

これは、国民を統治の対象としてしか見ていないのではないか、という疑念を招くものである。


さらに、公務員および国会議員には憲法第99条で定められた「憲法尊重擁護の義務」がある。

この義務は、憲法が定める国民主権、基本的人権の尊重、平和主義などの原則を守ることを意味する。

国民を明示的に忠誠の対象から外すような表現は、これらの原則に反し、民主主義の根幹を揺るがすものである。政治家が国民ではなく「国」に忠誠を誓うとすれば、国民の反対意見を無視した政策推進が正当化されかねず、権力の暴走を招く恐れがある。


また、「卑弥呼の時代から続くこの国そのもの」という概念は、極めて抽象的で恣意的である。

何が「正しい日本」かを政治家が独自に定義し、それに忠誠を誓うことは、権力者が自らのイデオロギーを「国の本質」として押し通す口実となり得る。

現代の国民の多様な意見や利益を無視し、反対を押し切ってでも実行する危うさを露呈している。


歴史的に見て、戦前の軍国主義時代では「天皇(国家)への忠誠」が国民の生命や権利よりも優先され、悲惨な結果を招いた。

この発言からは、国民を犠牲にしても「国体」を維持するという全体主義的な思想が垣間見える。

戦後日本が築いた民主主義を否定するようなニュアンスは、決して許容されるべきではない。


最後に、卑弥呼の時代(3世紀頃の邪馬台国)は、中国の史書『魏志倭人伝』に記される程度で、複数の小国が乱立していた時期であり、現代のような統一された国民国家としての日本は存在していなかった。

歴史的事実として、卑弥呼の時代から現代日本までを一つの連続した「国」としてパッケージ化し、忠誠の対象とするのは、大きな飛躍であり、歴史修正主義的な色彩を帯びていると言える。


このような発言は、政治家としての資質を疑問視させるものであり、民主主義の観点から強く批判されるべきである。

政治家は常に国民の声を聞き、国民のために奉仕する姿勢を明確に示すことが求められる。