児島湾干拓(藤田伝三郎) | ExcomAdvisorのブログ

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本稿は私・平田幸治の個人の意見・見解等を綴ったものです。

この写真は児島湾の海面(干拓地ははるか西の岡山市南区)

 

  岡山市の児島湾の海岸に友人ときて江戸時代の岡山藩士・津田永忠の新田開発等を話して、藤田伝三郎の児島湾干拓に至った。このことは、Wikipediaに記されているのでご参照願いたい。

  一部児島湾干拓についてWikiから転載する。

 

  

児島湾干拓事業[編集](Wiki)

特筆すべきは、児島湾干拓事業である。この計画は岡山藩の時代からあり、一部着工されていた。明治になって旧藩士たちが工事を進めようとしたが、資金難から藤田を頼ってきた。採算の見通しは持てなかったが、大がかりな国土創成計画に夢を感じ引き受けた。このあたりは、政商という世間の評を超えたスケールの大きさである。

干拓事業は明治17年に出願、5年後の明治22年(1889年)に認可されたが、地元の反対運動、不況、大洪水などあり着工したのは認可から10年後の明治32年(1899年)となった。全部で5500町歩の広大な海を7区に分けて埋め立て、第1区から5区までは藤田組の単独施工で、昭和25年(1950年)に完成した。第6区は藤田組と農林省と農地開発営団が手がけ、全部が完成したのは昭和38年(1963年)で、着工以来実に65年の歳月がかかったことになる。

この功績によって、第2区を中心とした干拓地に作られた村には藤田の地名がつけられた。これは後に同村が岡山市に合併された後も地区名として残されている。そのため岡山市域においては藤田傳三郎と言えば「藤田村を作り上げた人」と小学校の社会の授業の地域史にて教えられることが多く、岡山出身者には前述の功績・事件を知らずとも、何をおいてもその点で地域に殉じた大いなる偉人として認知されている。

 

  

  Wikiにあるように、地元の小学校では授業にもあるのだが、他の地域においても「その時代に地域にきらめいた人物」がその地域では知られているものの広域には知られていないことは多い。性格は違うが、例えば、「先憂後楽」の言葉にしても儒教といえ、後楽園がある岡山市でもその意味は広範に知られるまでにない。

(ひらた こうじ)<了>