今朝は山陽新聞社(本社・岡山市)主催の漂流民史講演に塩田王・野崎家のある倉敷市児島に赴いた。講師の太田健一・山陽学園大学名誉教授とは旧知であるが、同教授の研究に詳しい同紙幹部からテーマの「漂流民音吉の動静」のそのストーリーは前もって聴いていたので、なぜ野崎家をはじめとする製塩業者がこうも多方面に至るまでの関与をしていたのか関心があった。
音吉たる愛知県知多郡出身の船員が天保3年(1832)に遠州灘で遭難しアメリカ西海岸に漂着し、イギリス人に救出され、通訳官「オトー」として活躍、さらに実業家として財を形成し、1862年妻の故郷シンガポールに移り、同所において1867年死去する。その息子二世音吉は父の遺志にしたがって明治12年(1879)帰国するに至ったと推定されている。(太田教授レジメから)
太田教授の講演では塩業家の渾大坊益三郎・野崎武吉郎の両氏がいかなる経緯によって音吉二世と関係をもつに至ったかを野崎家文書に依拠して講義された。主催が新聞社という性格からも講義内容はここでおきたい。
野崎家をはじめとする製塩業者「十州同盟」が当時に財力ならず外地へのマーケティング能力や情報収集能力も兼ね合わせてもっていたことも確かだろう。そのことからも公になる太田教授の貴族院議員・野崎武吉郎の評伝が当地方ならず製塩業の興隆期にその広い影響力を及ぼした証左となろう。
その検証の方法論を述べた太田教授は、講義のしめくくりに、先の大戦の終戦の後アメリカは日本ほどの勢力の国がなぜ世界に戦いを挑んだのか、日本の農山村の意識調査のアプローチを米ミシガン大学の研究班に割り当てたと指摘した。その調査対象が当地・岡山であった。そこで、岡山大学の谷口澄夫先生の研究にも目が向けられたという。今はミシガン大学の収集史料はエール大学に移っている。アメリカはそこまで学術研究の裏付けをとっていたのである。
この太田教授講義の聴講の機会を配意していただいた山陽新聞社営業局事業本部と桑原浩子・同副部長に感謝申し上げたい。加えて、山陽新聞社が地域の人々ならずこうした歴史の検証の取組みを続けられることに深い敬意を表したいと思う。<了>
《追記》
2016年1月24日山陽新聞29面【訃報】太田健一(おおた けんいち)山陽学園大学名誉教授、日本近現代史。1月23日胃がんのため死去、79歳。