You Tube番組『機関車ラヂオ』を共宰するsteam_locomotive_nostalgia(猫実マサヒロ)さんから過日「大雪くずれの写真はありますか」との問合せをいただいた。

それでハタと気がついたのだが、僕は若い頃、札幌発の下り夜行大雪にはさんざんお世話になって(乗車して)いながら、走行写真を撮ったのは2回しかないという事実である。鉄チャンたるもの、普通は「乗るより撮る」だが、こと夜行大雪に限っては「撮るより乗る」だったのである。理由はハッキリとしている。夜行大雪はまさに夜行列車ゆえ走行写真が撮れる早朝に撮影ポイントにまで辿り着くことが難しかったからである。

 

1回目の撮影は1975年3月。蒸気機関車を撮りに初めて北海道を訪れた際である。当時中学生だった僕らは、渡道に当たり親から行動予定表の提出を義務づけられていた。そこに「夜行列車の自由席で移動」などと書こうものなら、旅行自体が禁止されかねなかった。移動はB寝台か駅前旅館という、今振り返っても豪華日程だった。撮影前日は網走駅近くの旅館に泊まり、翌朝網走発06:14の522レに乗って呼人で下車した。この列車はC58の牽引だったと思うが、例によって写真は撮っていない。駅から女満別側に早足で歩き、女満別川の堤に三脚をセットした。そして、ほどなくしてやってきた1527レを迎え撃った。この列車は北見まで急行大雪5号として運転され、北見からは普通列車として運転されていた。だから急行のなれの果てという意味でファンの間では「大雪くずれ」と呼ばれていた。編成には珍しいオロハネ10が連結されていて、それがわかるように撮れたので、自分としては会心のショットだった。拙著『Excellent Railways ー追憶の鉄路ー』に掲載したことはいうまでもない。列車が通り過ぎるのにあわせ振り向きざまに首から下げていたペンタックスSPFでも白煙棚びく後ろ姿を撮った。

↓急行大雪くずれの1527レを牽引するのはC58 98[北]。この98号機は現在も深川市内で保存されていて、熱心に維持・保存活動をされている方々に頭がさがる。女満別ー呼人にて1975.3.19撮影

↓振り向くと白煙が綺麗に棚びいていた。

 

2回目は1981年3月。この年の1月にDD51が重連で牽引する急行ニセコの編成が14系500番台車に置き換えられた。種車は55•10改正で廃止された関西・九州間の“雲仙・西海”や“阿蘇・くにさき”で使われていた車両だろう。14系化の次のターゲットが旧型客車を使用している夜行急行(“大雪”や“利尻”など)であることは火を見るより明らかだった。14系客車の耐寒耐雪改造は道内の苗穂工場あたりで行われるのだろうが、工場での改造日程などわからない。ニセコの例からして3カ月もあれば改造できるのだろうから、一刻も早く撮っておくに如くはないと考えて実行に移したというわけである。

撮影場所としてはなるべく終着の網走に近い方が望ましい。少しでも明るい状況で速いシャッタースピードを確保したいからだ。撮影するとしたら呼人トンネルの手前のカーブしか考えられなかった。このため、前の晩は呼人駅近くの呼人旅館に泊まり、翌朝マイナス20℃にまで冷え込んだ中を撮影ポイントまで歩いた。こうした熱意が実を結んだのか、おかげで綺麗な急行編成を撮ることができ、これも会心のショットとして拙著に掲載した。

なお、このとき撮影した大雪7号は北見からの急行崩れではなくなっていて、札幌から網走まで通しでの急行運転だった。1979年のダイヤ改正で北見発の急行しれとこが発車時刻を繰り上げた上で網走まで普通列車化されたのと入れ替えになったようだ。だから、正確に言えば、大雪くずれは1回しか撮っていないことになる。

↓凍れる中を終着網走に向けて疾走する急行大雪7号。朝のニュースでは、北見でー25℃、網走でー18℃と報じられていた。列車の走行位置は、上の後追い写真とほぼ同じ位置である。女満別ー呼人にて1981.3.9撮影。


【お知らせ】

猫実マサヒロ氏(steam_locomotive_nostalgia)と青井岳夫によるYou Tubeチャンネル『機関車ラヂオ』。国鉄時代のあれこれに関し、アラ還前後のいい歳こいたオヤジのダベリと言えなくもありませんが、皆様にご笑覧いただければ幸いです。