蒸機現役時代の1974年12月に南九州の志布志機関区を訪れて以来、大学生から社会人なりたての頃(1980年代)の旅行では時折機関区にお邪魔して写真を撮らせてもらうことがあった。大都市の機関区や規模の大きな機関区は敷居が高かったので、狙いはもっぱら地方の機関区。当時訪問して写真を撮らせてもらった機関区はざっと以下の通りである。

追分(室蘭本線)、鹿ノ谷(夕張鉄道)、加世田(鹿児島交通)、水上(上越線)、福島(奥羽本線)、石打(上越線)、米子(山陰本線)、那珂湊(茨城交通湊線)、真鍋(筑波鉄道)、新金谷(大井川鉄道)、横川(信越本線)、瀬野(山陽本線)、東京(東海道本線)、常陸大子(水郡線)、敦賀(北陸本線)、吹田(東海道本線)、西唐津(筑肥線)、豊橋(飯田線)、小樽築港(函館本線)、七尾(七尾線)

このほかに運転所や電車区などにも足を運んでいるが、それらは除いている。上記のうち東京、敦賀、吹田、豊橋はイベント時の訪問である。

機関区訪問の楽しみは普段なかなか立ち入ることができないところに入ることができるということもあるが、なんといっても車両とじっくりと向き合うことができることだ。シーンと静まり返ったクラでお気に入りの車両と心ゆくまで対面できることは至福の時間であった。


福島機関区には1981年10月に訪問した。

福島機関区は東北線系統の蒸機が所属する福島第一機関区と、奥羽線系統の電機が所属する福島第二機関区が統合したもので、当時は東北本線と奥羽本線を走行する電機(ED71・ED75・ED78・EF71など)が配置されていた。余命いくばくもないED71をメインターゲットして仲間と共に遠征した際に、福島機関区でED71の停まりの写真を撮ることを思いついた。中に入れてもらえるかどうかはわからない。とにかく行ってみようと、福島駅から歩いて奥羽本線に隣接する機関区に向かった。辿り着いた機関区のすぐ隣にはマンションがあったりして、周辺は住宅街の雰囲気であった。早速事務所で撮影許可を求めると、構内での撮影は認められたが、誘導の職員を付けるという。僕らはその職員氏の監視!?のもと、良好な光線状態でED71やED75などの撮影をすることができた。しかし、時間帯が悪かったのか、どの機関車もパンタグラフを畳んだ状態で休んでいるのが残念といえば残念だった。

↓(下3点)福島機関区に憩うED71

↓(下2点)午後の日差しを浴びて佇むED75

ひととおり撮影がすみ、そろそろおいとましようかと思っていたところ、件の職員氏が「クラの中にED71のトップナンバーがいるが、見たいか?」と聞いてきた。当時既に1号機は除籍されていたが、まだ残っているんだと思いつつ、職員氏の後についてクラに入った。そこにはスカートの左半分を撤去された1号機がいた。哀れな姿ではあったが、西陽が差し込むクラの中に佇むさまは印象的であった。

↓クラの中に保管されていたED71の1号機。同機はその後スカートを修復のうえ利府の新幹線車両基地で保存されていたが、数年前に解体されてしまった。

僕らはすっかり満足して、丁重に御礼を述べつつ、機関区を辞したのであった。

福島機関区に限らず、そういう時間と場所を提供してくれた国鉄をはじめとする鉄道会社には今となってはとても感謝している。しかし、国鉄がJRになった頃から、気軽に機関区などを訪れることがままならなくなった。それと共に鉄道会社とファンの間の距離が広がってしまったように感じられてならない。

近年は入場料というか参加料を徴収して車両基地で撮影会が催され、機関区等に入ることができるようになったが、心理的な距離という点では当時とは比べるべくもない。