「三代続いて江戸生まれが江戸っ子」とか「三代続く国鉄一家」とか言われるように、世間には三代続けばホンモノという見方がある。

 

僕の父方の祖父は若い頃鉄道省に勤めていたらしい。「らしい」と書いたのは、祖父から直接聞いたのではなく、父から聞いたからである。ノンキャリア組として若い頃は秋葉原駅で勤務していたという。そう言われれば、はるか遠い昔に祖父が「秋葉原はかつてはアキバハラとかアキバガハラ、あるいはアキバッパラと呼ばれていた」と言っていたのを朧げながら覚えている。祖父は病気を患って若くして鉄道省を辞め、空気の良い郊外に移り住んで商店を営んだ。それは亜幹線沿いのほとんど線路端といってよい立地だった。僕が小学校に上がる前の幼い頃祖父の家を訪れると、煙突にクルクルパーをつけたC57やC58の牽く列車がわりと頻繁に通るのを目にすることができた。特に夜、寝床に入っているときに汽笛を響かせ地面を揺るがしながら通過する蒸気機関車には怖さに近い畏れを抱いたものだ。僕の鉄道好き・SL好きの原点はここにあると思っている。しかし、祖父は僕が鉄チャンの道に足を踏み入れる前に他界した。

↓父が実家の庭先で撮影したと思われる写真。時期は1960年代前半?、カマはC58か?

そんな祖父の長男(僕にとっては叔父)も就職先として国鉄を目指したが、終戦後の世情混乱、公社移行直後の人員整理断行という状況下でそれが叶わず、ある中央官庁に就職した。だから兄貴は鉄道に詳しいと父から教えられた。そんな叔父とは滅多に顔を合わす機会はなかったが、ある年の正月休みに田舎(故祖父宅)で一緒になった。そのときは僕も鉄道趣味の世界に足を踏み込みつつあった。それを知ってか知らずか、叔父は僕を相手に国鉄101系電車について滔々と喋り始めた。それが終わると次は丸ノ内線用の営団500形。僕は呆気にとられ、黙って聞いているほかなかった。叔父には二人の子供がいたが、二人とも娘。鉄道好きの流れは僕に引き継がれた。

それから幾星霜。大学生のときに国鉄本社を訪れ、社内報の座談会に出席させてもらったことのある僕は卒業後は国鉄に就職したいと思うようになっていた。しかし、分割民営化の論議を前に国鉄は新規大卒採用を停止していた。翌年に採用が再開されるという保障などもちろんなく、別の進路を考えざるを得なくなった僕はいくつかの官庁・会社訪問を通じ、国鉄と雰囲気がとてもよく似ていると感じた中央官庁に就職することになった。それは鉄道行政を担う官庁ではなく、奇しくも叔父と同じ役所であった。そのとき僕は、ああ、叔父も社風というか職場の雰囲気で決めたのだなと思った。

叔父は僕が就職する前に退職していた。その叔父はもうだいぶ前に他界したが、僕が役所の退職後に鉄道写真集を出版したことを次女(僕にとってはいとこ)に報告したところ「あら、そうなの」のひと言で片付けられてしまった。

我が一統は、鉄道勤務は一代限り、それも中途退職であったが、官庁勤めという視点でみると三代続いたことになる。

↓以下に掲げる写真はいずれも1976年3月に内房線で撮影したもの。