1984年1月某日、前夜札幌から乗った夜行大雪を遠軽で降り、普通列車に乗り換えて金華(かねはな)に着いたのは6:49。旅の途上で知り合った鉄チャンから、常紋に最近伐採された場所があり俯瞰できるようになったと聞き、どうやらそれが1975年に上りのD51貨物を撮影した場所のあたり(今で言うところの150キロポスト)なので、これは行ってみようと金華にやってきた。金華で降りたものの、天気はどんよりとしていて、あまり写欲がわかない。しかし、就職を間近に控えていて、次はいつ来れるともわからない。僕は意を決して雪がちらつき始めた中を常紋信号場方面に線路端を歩き始めた。数キロ歩くと、たしかに伐採された斜面が目に入ってきた。あそこだなと思い斜面にとりついたが、雪がまったく締まってなくて思い通りに登ることができない。悪戦苦闘しつつなんとか斜面の中腹に登った。なるほど、それなりにいいポイントだ。期待が膨らむが、雪がちょっと激しくなってきたなと思ったらあっという間に吹雪始め、視界がかなり悪くなってしまった。でもせっかくだからとそのまま待機し、遅れてやってきた534レと1592レを撮影した。

↑↓最近伐採されたという斜面から捉えた534レ(上)と1592レ(下)。150キロポスト付近だと思う。1975年3月にはここより少し信号場寄りで撮影した。

↓この列車については撮影メモ帳に何も記録がない。撮影場所からして上の写真と同じところで反対側を撮影したのかもしれない。いずれにしろダイヤに載っていない列車で、慌てて撮ったことは間違いない。

雪はしばらく止む気配がなかったので斜面を降り、線路端で557D、6Dを撮った。雪は相変わらず降り続いていて、これ以上粘っても天気が好転することはないだろうと判断し、金華駅に引き返すことにした。

↑↓線路端で撮影したキハ22の557D(上)とキハ82の6D“おおとり”

駅まで戻ってくると一人の男性が列車から降ろされた荷物(新聞)の仕分け作業をしていた。僕が挨拶をすると「うちに寄ってかないかい」とおっしゃる。もとより暇なので異存があるはずもなく、その男性についていくと、駅前をちょっと行った左手にその男性が営む新聞取扱店があった。中に入ると、まぁ座れと言われ、ストーブのそばに座った。男性は自分を『繁谷野仙人(もやのせんにん)』と名乗り、名刺まで差し出した。姓はともかく名は出来すぎだなと思ったのも確かである。そして、勧められるままに日本酒を飲み、出された肴をいただきながら、仙人氏の言うことを相槌を打ちながら聞き、問われるままに受け答えしていた。そうしたやりとりの中で峠の麓の集落の厳しい生活の一端を垣間見る思いがして、とてつもなく貴重な時間を過ごしているという実感があった。仙人氏は人猿稀な駅に降り立つ若い旅人に声をかけ、こうして接待しているのだろうかと思いながらも、まだ昼間だというのに僕はすっかり出来上がってしまった。外は雪が深々と降り続いている。これからどこへ行くのかと問われ、流氷を見に斜里まで行くつもりですと言うと、「流氷か。長いこと見てねえな」と言われ、「道中気をつけて」とも言われた。写真を撮らせてくださいと言うと、快諾してくれた。僕は丁重にお礼を述べて仙人氏宅を辞し、2時間の遅れでやってきた列車に乗り、オホーツクを目指した。後日、お礼状と共に写真をお送りしたことは言うまでもない。

今思い返すと2時間ほどの滞在だったと思うが、いったいあのひとときは夢か現かどっちなんだろうと、40年経った今でも不思議な時空として決して忘れることができない。

↓繁谷野仙人さん近影。あれから30数年が過ぎた先年、146キロポストで撮影した際に足を伸ばして現地を訪れてみた。もしかすると親族、いやひょっとするとご本人がまだお住まいかもしれないと思ったからだ。しかし、金華駅は信号場になっていて、付近は廃屋ばかりであった。