日常生活にしろ仕事にしろ、はたまた鉄チャン活動にしろ、情報が溢れている昨今では事前のリサーチが全てと言ってもよいほどで、事前検討結果に基づいて行動するということが多い。しかし、携帯電話はおろかPCすら影も形もなく、情報が乏しかった1970年代、鉄チャン活動の最中に現場で得られた情報によっては予定を変更するということが頻繁にあった。

1975年3月の北海道撮影旅行。前夜網走の旅館に泊まった僕らは、翌朝呼人駅から女満別川の鉄橋まで歩いた。既に数人の同業者が三脚を立てている中、雑談をしながらC58の牽く“大雪くずれ”の通過を待った。その雑談の中で、今日の1594レがC58重連になるとの情報を得た。そして、それを撮るならお勧めの場所があると言って、(趣味誌では紹介されていない)美幌・緋牛内間にあるお立ち台のことまで教えてもらった。撮影場所を秘匿したがる昨今とは今昔の感がある。

それはともかく、僕らの当初の予定では、この後天都山の頂上から湧網線の貨物列車を撮影し、そのままサロマ湖か能取湖あたりの湧網線での撮影を予定していた。しかし、C58重連となれば話は別である。僕らは午後の予定をC58重連に切り替えた。その場で1527レ大雪くずれを会心のショットで仕留めてから天都山の山頂に向かい、湧網線を行く9600貨物を撮影した。撮り終えると網走に戻り、石北線で美幌まで行った。教えられたお立ち台は、美幌からバスに乗って「高野第一」という停留所で降りて歩くとのことだった。乗り込んだバスにはひと目で鉄チャンとわかる同業者が結構乗っていて、みな高野第一で降りた。僕らもその步列についていくと、畑の中に鉄チャン道ができていて容易に歩みを進めることができた。どれくらい歩いたのか定かではないが、まだなのかなぁと思い始めた頃、突然眼下の視界が開けお立ち台に到達した。

↓美幌ー緋牛内のお立ち台にて(1975.3.19)

そこは左手の山かげから右にカーブした線路が片築堤の直線にさしかかり、真横を通り過ぎるまでずっと見晴らしがきくという、願ってもない場所だった。僕は三脚にマミヤC220をセットし、ペンタックスSPFは手持ちというスタイルで1594レを待った。万全の準備と心構えで待機していると、やがて山間に汽笛が響きわたり、現場は一気に緊張感に包まれた。画面左側に二条の煙を確認してからはもう無我夢中。牛歩のような歩みでやってきた1594レをマミヤで3カット、ペンタックスで5カットと撮りまくった。林の影に隠れゆく列車を見送ると、充実感とともに虚脱感に襲われた。感動のあまり茫然自失となったのであった。

後片付けもほどほどにバス停までの足取りは軽かった。冷たい風がそれなりに吹いていたが、他の鉄チャンと共に停留所の待合小屋で待避しつつバスを待った。そうして日が傾き始めた現地を後にしたのであった。

↓マイ・ベスト・ショット。ほとんど逆光だが、煙の影が築堤に写っているのがとても気に入っている。拙著『Excellent Railways ー遥かなる鉄路ー』にも収録した。

あれから幾星霜、機会があれば現地を再訪したいと思っていた。しかし、ネットにある前面展望の動画などで件の場所がどうなっているか調べてみたものの、木々の成長によりお立ち台は消滅してしまっているようだ。たぶん今では現場に近づくことすらままならないだろう。近年渡道の際に国道39号の高野第一を通ることがあり、一瞬お立ち台のことが頭をよぎるが、いつもそのまま素通りしてしまうのである。