35年前の1987年3月31日は公社としての日本国有鉄道の最終日すなわち国鉄分割民営化前日であった。翌午前0時をもってJR各社が発足する。そこで蒸気機関車の汽笛を鳴らして門出を祝おうと、動態保存蒸機が引っ張り出された。テレビ各局はまるで大晦日の「ゆく年くる年」のように各地の情景を放映した。汐留駅前では京都からC56 160を運び込み、最後の国鉄総裁が汽笛レバーを引いた。関西では大阪・梅田でC62 2を何日間か展示するとともに、31日の晩に梅小路のターンテーブル前に蒸気機関車を勢揃いさせ、有名作曲家がタクトを振り、各機の汽笛で蛍の光のメロディーを奏でた。少し、というかだいぶ音程を外した感なきにしもあらずだった。

それよりなにより僕の目をひいたのは小雪舞う小樽築港機関区のC62 3だった。カマからは白いスチームが漏れていて、火が入っているのは一目瞭然だった。C62 3が復活するかもしれないという噂は早くから流れていて、前年の10月に整備のために苗穂工場に入ったと報じられたが、本当に復活するのか半信半疑であった。それだけにこれほど早くカマに火が入ったのは驚きであり、この光景を見てC62 3復活は確実であると確信した。

はたして、それから1年後の1988年のゴールデンウィークにC62 3は見事復活し、営業運転に返り咲いた。先輩鉄チャンの話や昔の趣味誌の記事などで見聞きした伝説のC62(シロクニ)重連急行に思いを馳せていた僕にとって、これは奇跡のような出来事であった。

もうすぐにでも会いに行きたかった。しかし、当時の勤務状況の中で国会開会中に東京を長い間離れることはためらわれた。臥薪嘗胆の数か月を過ごし、夏になって堂々と長期休暇が取れるようになると、満を持して渡道した。マイカーに撮影機材の一切合切を詰め込んで、北海道は初めてという連れと共に東北自動車道を北上し、下北半島突端の大間から函館までフェリーで渡った。これが最安の渡道ルートだった。

↓C62 3最初の撮影場所はワイス温泉にほど近い踏切だった。(函館本線小沢ー倶知安・再掲)

↓倶知安では至近距離でシロクニの息づかいを感じることができた。(函館本線倶知安・ネガカラーにて撮影)

↑↓二日目は銀山からスタート。煙がポヨポヨなのが残念。(函館本線然別ー銀山)

↑↓金五郎山の農道はフルーツロードという愛称がつき、線路とのオーバークロス付近はお立ち台になっていた。当時はこの列車に限らずイベント列車の窓から身を乗り出して撮影を妨害する集団がいて、沿線の鉄チャンの顰蹙を買っていた。(函館本線蘭島ー塩谷)

↓DD51重連ニセコを初めて撮った200キロポストは押さえておきたかった。(函館本線小沢ー倶知安・ネガカラーにて撮影)

↓絶気とわかってはいたが、仁木でも撮影した。畑作のイメージがある北海道だが、このあたりから然別にかけては水田が見られた。(函館本線余市ー仁木)

2年ぶりの北海道だったが、実は夏の北海道はこのときが初めて。思ったより暑いなと感じた。七重浜のフェリーターミナルに着岸後は函館海線で撮影しながら北上し、焼きトウキビを食べたりしながら洞爺湖から倶知安に抜けるルートを通り、岩内からほど近い日本海に面した泊村の旅館で荷を解いた。そこで日本海の海の幸を楽しんで、翌日からのシロクニ撮影に備えた。

C62 3の運転区間は小樽ー倶知安。牽くのは旧型客車5両。普通この手の列車につけられるヘッドマークはなし。現役時代にこだわった取組に大いに共感した僕は、ファーストカットをワイス温泉近くの踏切で撮るべく、時間的余裕をもって現地に着いた。シロクニは期待に違わず爆煙で現れ、高速で駆け抜けていった。

その後も然別〜銀山、蘭島〜塩谷、小沢〜倶知安、仁木〜余市と学生時代に撮り歩いた沿線各地でシロクニを待ち構えた。倶知安では機回しや整備の様子も見ることができた。新婚の連れがいたこともあり、連日鉄チャンというわけにもいかず、道内各地を観光した関係でわずか三日間の山線詣であったが、初めて見るシロクニの迫力に圧倒された。その余韻は帰京後もいつまでも消えることはなかった。(②へ続く)