その昔、コンテンポラリー・フォトグラフィという写真のジャンルが一世を風靡したことがあった。略してコンポラ写真とも言われた。アメリカあたりが発祥らしいが、日本では『カメラ毎日』誌がよく取り上げていたように思う。たぶんコンポラ写真を積極的に載せようという編集方針があったのではないかと想像する。

どんな写真かというと、日常の何気ない被写体、普通ならカメラを向けないような被写体を標準レンズや広角レンズを傾けて撮り、現像やプリントも粒子が粗くしたものが多かった。中にはブレたりボケていたりする写真もあった。森山大道、中平卓馬、柳沢信、高梨豊、荒木経惟などの写真家が代表的だった。

↓中平卓馬

↓柳沢信

↓森山大道

↓高梨豊

僕は今に至るまで北井一夫や、それに連なるアンリ•カルチェ=ブレッソン、木村伊兵衛などコンポラ写真とは対極にある写真が好きなのだが、当時高校生だった僕はコンポラ写真にも惹かれるものがあった。コンポラ写真のなんたるかもわからない(今でもわからないが)高校生が感化されるのはアッという間だった。たまに鉄道を撮りに出かけても、コンポラ写真にわざと水平垂直をはずして傾けて撮ったりもした。今思うととても勿体ない、別の言い方をすれば残念な撮り方だ。さらには学校の文化祭で、どうだ、これが俺のコンポラ写真だ、とばかりにそれらの写真を引き伸ばして堂々と展示したのは若気の至りもいいところ、今になって穴があったら入りたい。

↓鶴見線大川支線にて

↑↓紀勢本線にて

↓梅小路蒸気機関車館にて

 先年、昔のネガをデジタル化した際に実に久しぶりにそれらの写真を目にしたが、自分でも当時の撮影意図が全くわからなかったのには閉口した。

しかしである。写真に関する感性が加齢と共に劣化していることは自分でもよく認識するようになった。これはなにも僕だけでなく、プロの写真家もそうではないかと思う。若い頃はあれだけ冴えた写真を撮っていた人が最近はパッとしないということがよくある。そこで思うのだが、今頃コンポラ写真に取り組んではどうだろうかと。案外マンネリや惰性を打ち破るきっかけになりそうな気もする。問題はそれをSNSなどに発表するのは、すごく小っ恥ずかしいということだ。