その昔、東武鉄道に本線系統•東上線系統とは別にポツンと独立して存在していた路線があった。熊谷と妻沼を結ぶ熊谷線である。本来は軍需路線として利根川を渡って中島飛行機(現 スバル)の工場があった小泉線と繋がるはずだったが、終戦により立ち消えになった。

熊谷線には東武唯一の気動車キハ2000形が走っていた。外部塗装は既にセイジクリームになってしまい、あまりパッとしなかったが、正面は2枚窓の湘南顔、側面はバス窓となかなか好ましいスタイルをしていた。

その熊谷線が1983年5月31日限りで廃止されるというので、前日の30日早朝4時にマイカーで自宅を出て駆けつけた。1981年9月以来1年8ヶ月ぶりの訪問であった。前回は沿線でひとりのファンに会うこともなく、のんびりと撮影できた。さすがに今回は大勢の人出で、まだ6時というのに妻沼駅前では日本テレビのクルーがカメラを回していた。聞けば今朝のズームイン朝で放映するとのこと。午前中の授業をサボってやってきたことがバレないよう、テレビ画面に映らない立ち振る舞いをしつつ駅風景を撮影した。

↓廃止前日の妻沼駅の様子(以下の写真は全て1983.5.30撮影)

↓キハ2000形の車内外

その後は妻沼駅のはずれにある腕木式信号機付近や妻沼・大幡間にある福川橋梁、大幡駅近くのR17バイパス付近など頻繁に場所を変えつつ撮影し、最後にもう一度妻沼駅に立ち寄った。車両はキハ2002とキハ2003が2連を組んだり単行で走ったりときめ細かい運用をしていたが、最後くらいずっと2連のままでもよいのではと思った。

↓腕木式信号機の脇を通り抜けるキハ2000形

↓福川橋梁にて。運よく水鏡になった。

↓埼玉県北部は麦の生産地。麦秋の中をキハ2000形が進む。

↓立派な木の横を通り過ぎる。かぶりつきの女の子が珍しい。

↓五月晴れの空の下、まさかこの後光化学スモッグに罹るとは•••

↓乗降客で賑わう妻沼駅も明日限り。

時刻はまだ11時前だったが、かなり精力的に動き回って撮影したためか、あるいは晴れて湿度の高いジメジメとした天気のためか、いつになく疲れてしまった。午後の授業には出なければならなかったので、ここらへんで切り上げて大学に向かうべくハンドルを握った。しかし、しばらく運転していると目がチカチカして軽い目眩のような感じがしてきた。これは光化学スモッグに罹ったに違いないと思った僕は、車を停めて休憩することにした。自分は光化学スモッグに罹ることはないという根拠のない自信は見事に打ち砕かれ、不安になった。幸いしばらくの間じっとしていたら症状が和らいできたので、おそるおそる運転を再開し、午後の授業が始まる前になんとか大学構内にすべり込んだ。

近年は「光化学スモッグ」という言葉をとんと聞かなくなった。代わりに当時は聞かれなかった「熱中症」という言葉が普通に使われるようになった。光化学スモッグはその後どうなったのだろうと思う。