自分で考えることのできる子を育てる方法 | あきのブログ

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モチベート、上達法、仕事術、心理学、AIなど興味のある分野を中心に記事を公開します。

最近は年度の変わり目ということもあり、生徒の保護者と話す機会が多い。

その中で対象的な2人の子どもを持つ親と接する機会があり、とても興味深かったので記録しておく。

(まあ、ちょっとイラッとしたところもあったので、感情に任せて執筆しているが 笑)

 

自分で考える子どもに育てたい親に必見の内容になっているので、是非読んでもらいたい。

自分で考える子どもを育てる親の特徴

  • 子どもが興味を持ったものは満足行くまでやらせる
  • なんでも与える
  • 言葉ではなく行動で見せる
  • 子どもがやり終えるまで待つ

自分で考える力を奪う親の特徴

  • 子どものやることなすことを親がすべて決める
  • 子どもの興味に蓋をする
  • 言葉だけで、行動で示さない
  • 子どもを信じて待つことができない

 

自分で考える子どもを育てる親の特徴

子どもが興味を持ったものは満足行くまでやらせる

子どもが興味を持ったものはなんでも与え、満足するまでやらせる。昨今、その依存性が騒がれているスマホですら、早い段階から与え、使わせていたという。

 

制限と言えば、目が悪くならないようにブルーライトカットのメガネを着用することくらい。その結果、スマホを満足行くまでいじるが、満足すれば飽きて、その後は自分で使用時間等をコントロールできるようになる。

 

「我慢すればするほど、『こじらせ』てしまう。満足行くまでその行為をしていれば、飽きて自然とその行為を節度を持たせることができる。」

 

なるほど。確かに、我慢して我慢して閉じ込めていた欲求はいずれ爆発して、収集がつかなくなるという経験は私もしてきた。

大人でもこの考えは当てはまるだろう。

 

言葉ではなく行動で見せる

「勉強しなさい」という親が勉強してない。これではその子どもは勉強するはずがない。子どもは大人の「悪いところ」ばかり見るもの。

「お前(親)が勉強してないなら、僕・私だってやらなくて良くね?」

会社であっても、部下は上司のダメなところをマネする。だから上司になるものは何かに尖った人材ではなく、ミスがないバランスの取れた人材が良いと言われるほど。

あなたが親だとして、子どもにしてほしい行動を、あなた自身はしているだろうか?率先垂範だ。

 

子どもがやり終えるまで待つ

「ウチの主人は子どもが自分の力で靴を履き、扉を開け、外へ出るまで、じっくり待つんです。」

 

と自分で考える子どもを育てる母親は語る。

 

親の都合で子どもの行動を 急かしてはいないだろうか?早く出発しなければ予定の電車に間に合わないという気持ちはわかる。

 

しかし、今、あなたの目の前では、自分でやってみようとチャレンジしている子どもがいるのだ。成長する絶好のチャンスではないか。

 

また、子どもが何かやり遂げることを見届けてあげることで、その子どもは親に見てもらえているんだという安心感を持つこともでき、一人でできたことを目一杯承認してあげれば、子どもの承認欲求も満たすことができる。

 

承認欲求が満たされた子どもは気持ちも安定し、安心して高次の欲求を満たすようにチャレンジをするようになる。

 

自分で考える力を奪う親の特徴

子どものやることなすことを親がすべて決める

まさに今日実際にあった事例だが、親がすべて、塾に行くとか塾を変えるとかを決めてしまう。力で子どもと接するので子どもは反発もできない。そこに子どもの意見はない。

 

これでは、子どもが自ら考える余地など存在し得ない。さらに厄介なことが2つある。

 

まず一つ目は、そういう親ほど承認欲求が強く、子どもを支配的に見て「俺がしてやったんだ」と言わんばかりのドヤ顔をかましてくる。こちらからすれば、子に依存しているだけの厄介きわまりない大人である。大人として見て良いかどうかすら怪しい。

 

また、中学校くらいであれば、ある程度その親が言った通りにやればうまく行ってしまうことも厄介なことの一つだ。親の言うことを聞いていればうまくいくと思い込んでしまうので、次自分で考えないことにさらに拍車がかかる。

 

子どもの興味に蓋をする

子どもが興味を持ったことでも、「それはくだらないからやめておけ」と余計な口出しをする。これでは子どもの探究心は満たされない。

 

本来、親は子どもにとっての安全地帯であるはずであり、子どもの成長に必要なチャレンジをみどけるべき存在であるべきだ。しかし、自分で考える力を奪う子どもの親は全く正反対のことする。

 

子どもの好奇心は否定され、認めてもらえない上にそのチャレンジをすることによる成長の機会をも奪ってしまうのだ。

 

言葉だけで、行動で示さない

親がどれだけ、「勉強しなさい!」と言ったとしても、その大人がせんべいを齧りながら寝そべってテレビを見ているようではまるで説得力がない。それに気づいていない親がでほどいるだろうか。

 

「そんなことはない。俺は・私は学生時代に寝る間も惜しんで勉強したものだ。」と反論する親もいるかもしれない。こんな考えでは「最近の若者は上昇志向が足りん!」と吠えている老害と同じではないか。

 

子どもからすればそんなものはただの過去の栄光に過ぎない。目の前のあなたが何をしているかがすべてなのだ。

 

子どもを信じて待つことができない

一回の結果だけで子どもを評価してしまう。こういう親は、子どもが成長するプロセスに目を向けることができない。まあ、雇われた会社で、結果だけを求められる可哀想なサラリーマンと言ってしまえばそれまでだが。

 

それを自分の子に押し付けるなど、ただの八つ当たりである。シンプルに子どもが可哀想。子どもなりに振り返り、反省し、次に活かそうと一生懸命足掻いているのに、それを平気でスルーする。

 

問われることで人は考え、答えを出そうとするもの。それを頭ごなしに結果だけで判断し、有無を言わさない。これでは自分で考える子どもに育つわけがない。

 

まとめ

自分で考える子どもを育てる親は、与え、子どもの可能性を本当の意味で信じて待つ。子どもの成長を心から祝福するものだ。

自分で考える力を奪う親は親が子どもに依存し、承認欲求を子どもで満たす可哀想な大人である。

 

子どもに物心両面において与えることは、自分で考え自ら行動ができる子どもを育てるという観点で、親にとっても子どもにとっても、最高の投資なのかもしれない。