第9話 有名人レビュー
『徳川夢声』
今回は 『徳川夢声』についてレビューします。
いま、徳川夢声など、誰も関心をもっていないとおもわれます。
40歳以下の日本人で夢声を知っている人すら少なくなっているに
ちがいないないのですが、やはり夢声は僕にとってすごい人です。
日本の「語りの元祖」だと思います。
ラジオ「宮本武蔵」で一世を風靡した時代を知っている人には、
耳の中に残ってるものがあると…
その場で消えるかもしれないような「話」に命を懸けたというのは、
何とも、あこがれの的だったのです。
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■徳川夢声(とくがわ むせい)
1894年4月13日~1971年8月1日
日本の弁士、漫談家、作家、俳優です。
ラジオ・テレビ番組などをはじめ、多方面で活動した日本の元祖
マルチタレントとも言える人物でもあります。

本名は福原駿雄(ふくはら としお)。
「彼氏」「恐妻家」の造語でも知られています。
日本放送芸能家協会(現・日本俳優連合)初代理事長です。
いわゆる「3つの袋」と言われる、結婚式のスピーチで定番の起源を
作った人ではないかと言われています。曰く
「結婚生活で大切なのは、お袋、給料袋、堪忍袋」ですと。
□生まれと育ち(弁士まで)
島根県益田市に生まれ、幼少時に津和野に一時住んだ後、東京で
育ちます。
口演童話家として活躍し、児童文学の普及に貢献した天野雉彦は
叔父さんです。
3歳の頃、母に捨てられ、同居していた祖母に育てられます。
幼少の頃から話術が達者で当時演じられていた落語をほとんど
覚えていたといわれます。
学生時代に、近所に住む人妻と恋愛関係になるのですが、彼女は
後に新劇界の伝説の女優「伊沢蘭奢」になりました。
東京府(現:東京都)立第一中学校(現在の都立日比谷高校)を
卒業しましたが、一高(現在の東京大学教養学部)の入学試験に
二度失敗します。
憧れの落語家になるため三遊亭圓子の元に入門を決意するのですが、
父親に反対され、1913年(大正2年)に活動写真(無声映画)の
弁士になります。
1914年(大正3年)に秋田の映画館で主任弁士を3カ月つとめた後、
1915年に帰京して新宿の映画館の主任をつとめますがすぐに館が
つぶれ、再度、秋田の映画館に2カ月でかけます。
その年の9月に、赤坂葵館に主任弁士として迎えられます。
この時、支配人が勝手に、「葵」から「徳川」という芸名をつけ
たため、後でそれを知った当人は大げさな名前に驚いたそうです。
1916年ごろ、弁士をしながら明治大学の聴講生になり1年ほど
籍をおきました。
1921年(大正10年)5月14日、日本で初公開のドイツ表現派の映画
『カリガリ博士』の弁士を務めたという記録もあり、活動写真が
好きでなかった竹久夢二なども観覧し、その印象を雑誌「新小説」
に挿絵とともに寄稿しています。
1925年(大正14年)、新宿武蔵野館に入り、東京を代表する弁士
として、人気を博します。
1926年(大正15年)から、特別イベントとして古川ロッパらと
弁士らの珍芸劇団「ナヤマシ会」を数年、開催します。
□昭和の始めから終戦まで
昭和の時代になって、音声の出るトーキーが登場すると弁士の必要
がなくなり、漫談や演劇に転じます。
弁士を廃業した1933年(昭和8年)、やはり古川ロッパらと劇団
「笑の王国」を結成しますが意見の相違ですぐに脱退します。
1937年(昭和12年)、岸田国士、杉村春子らの文学座に参加します。
ただし、新劇俳優としての夢声は悪評の嵐のなかで退団します。
他に、映画にも俳優として出演し、1942年には、薄田研二、
丸山定夫、藤原釜足らと劇団「苦楽座」を結成します。
また、漫談の研究団体「談譚集団」を結成。メンバーは、大辻司郎、
山野一郎、松井翠声、泉虎夫、奈美野一郎、木下華声、林家彦六、
正岡容などです。
また、夢声は弟子を集め、月に1回、新作漫談の発表会をやって
いたそうです。
なお、夢声は早くから老人めいた雰囲気があり、40代から「夢声老」
50代では「夢声翁」とよばれていました。
また、ラジオでも活躍し、1939年から、NHKラジオで吉川英治の
『宮本武蔵』の朗読を始め、人気を博します。
独特の「間」は夢声独自のものでありました。
文筆にも優れ、「新青年」などにユーモア小説やエッセイを多数
執筆します。
1936年、佐々木邦、辰野九紫らとともに「ユーモア作家倶楽部」
の創設に参加し、1938年、49年の直木賞候補にもなりました。
また、俳句好きで、1934年(昭和9年)から久保田万太郎の
「いとう句会」に所属し、句歴三十年に及びました。
ただし、毎日のように作ったので、膨大な凡作の山とのことです。
日々、詳細な日記をつけており、その一部は『夢声戦争日記』
として出版され、戦時下の生活の貴重な資料となっています。
また、自伝や自伝的な書も何冊も出しており、それらの執筆に
日記が役立ったと思われます。
太平洋戦争中は各地に慰問興行に出かけています。
1942年(昭和17年)から1943年、占領下の東南アジア各地の慰問団
に参加し、占領地での日本軍の野蛮な行動にショックを受けて
います。
また、シンガポールでは日本未公開の映画「風と共に去りぬ」
「ファンタジア」を見て、「日本は物質的のみならず、精神的にも
アメリカに劣っているのではないか」という感想を抱き、
後に随筆に記しています。
(1945年発表の随筆「風とともに去りぬ」)。
□ラジオ・テレビでの活躍
第二次世界大戦後は新しいメディアの波に乗り、ラジオ・テレビ
で活躍しました。
NHKラジオのクイズ番組『話の泉』のレギュラー回答者などを努め、
またテレビ放送も初期から関わり、NHKテレビの『こんにゃく問答』
(柳家金語楼と競演)などに出演し、日本におけるテレビ創成期の
立役者のひとりです。
1951年(昭和26年)、芸術祭賞受賞。
また、1951年から1958年まで週刊朝日に連載された連続対談
「問答有用」も、戦後の夢声を代表する仕事です。
1953年(昭和28年)のエリザベス2世戴冠式には、特派員として
訪英します。
また、夢声の娘が日系アメリカ人と結婚していたため、その帰り
にアメリカにも寄って娘や孫と会い、その旅を著書
『地球もせまいな』にまとめました。
1955年、「年ごとに円熟を示している各方面における活躍」により、
菊池寛賞を受賞します。
代表作のラジオ朗読『宮本武蔵』は戦後も、1961年(昭和36年)~
1963年にかけてラジオ関東にて放送されます。
2002年(平成14年)から同局と東海ラジオで再放送されています。
また、この『宮本武蔵』は1971年(昭和46年)に同局開局15周年
記念としてレコード化され、エレックレコードから発売されました。
1965年(昭和40年)には愛知県犬山市にオープンした博物館明治村
の初代村長となりました。
1971年(昭和46年)8月1日12時20分、脳軟化症に肺炎を併発して
死去しました。77歳没。
最期の言葉は「おい、いい夫婦だったなあ」であったそうです。
墓所は府中多磨霊園です。
□『話術』
夢声の本格的な話術論が『話術』に披露されています。
たとえば座談と会談と業談を分けなさい。
演説と説教と演芸を分けなさいというところから始まります。
「座談十戒」もちゃんとまとめてあり、15項目にわたっています。
①一人で喋るな
②黙る石となるな
③反り返るな
④馬鹿丁寧になるな
⑤世辞を言うな
⑥毒舌になるな
⑦こぼすな
⑧自慢するな
⑨法螺を吹くな
⑩酢豆腐になるな
⑪賛成だけするな
⑫反対だけするな
⑬軽薄な才子になるな
⑭愛想を欠かすな
⑮敬語を忘れるな
というものです。
酢豆腐というのは、5分もそのことについて話せないことなら、
知ったかぶりをするなという意味です。
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